文、手紙をモチーフにした短歌
「もともと和歌は恋文、つまり手紙だったともいえます」——そう語るのは「塔」選者の花山多佳子(はなやま・たかこ)さんだ。歌を書いて贈り、その返歌が来る、そういうやりとりの中で、感情表現や機知が磨かれてきたのだという。対話としての歌の伝統は明治時代まで生き続けていたが、「だんだん、その伝統はうすれて、短歌といえば自分だけで孤独に書きつける、というイメージになってきたような気がします」と話す花山さんが文、手紙をモチーフにした歌を紹介する。
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梅が枝に文をむすびてもてきたる使の童(わらは)年はいくつか
落合直文『萩之家歌集』
梅の枝に文をむすんで子どもが持ってきたんですね。これは別に恋文ではないでしょうが、明治にはこんな優雅なこともまだあったのか、と驚く歌です。誰からの文ということには触れず、持ってきた子はいくつくらいの年だろう、というのが、ほほえましい。きっと幼い、いとけない子だったのでしょう。直文には大和魂の国士風の歌もある一方で、わが子や見かけた子の歌がよくあります。とても子ども好きな人だったんだなあ、と思います。自然に口をついたような結句がいいですね。
ひろびろと心(こころ)の川(かは)のかがやける日(ひ)なりと君(きみ)に文(ふみ)かく我(わ)れは
与謝野晶子『夏より秋へ』
「ひろびろと心の川のかがやける日なり」という歌かと思ったら、そう文に書きました、という歌なので、ちょっと意外です。こんなことを堂々と文面にしたためるのは、さすが晶子。心の空、心の湖、とかでなく「心の川」というのもユニークな感じがします。ひろびろとかがやいて流れている、ゆったりとはしていても滞っていない気分なのでしょう。「文かく我れは」とあえて言うことで、人にも伝えたいという開かれた心持ちを感じさせます。
これも明治末の歌。晶子は三十代に入った頃で、すでに六、七人の子どもがいます。ふだんは「ひろびろと」というどころではなかったでしょう。
■『NHK短歌』2013年6月号より