自然体で向き合う短歌
短歌には、詩語を読み解く楽しみがあり、作者の生活や人間が作品からにじみ出る楽しみもある。コスモス・棧橋の大松達知(おおまつ・たつはる)さんが、自身の体験をもとに語った。
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いい歌とかつまらない歌とか言う。上手いけれども心に残らない歌があり、拙いけれども何度も思い出して味わうに足る歌がある。言葉の力だけで圧倒する歌があり、作者の境遇を知ってさらに輝く歌がある。歌集や歌会や新聞歌壇や散文中の引用など、さまざまな歌との出会いの場がある。しかし、われわれは感覚的にその場の意味合いを判断して歌と向き合う姿勢を変えているようだ。
私事で恐縮だが、昨年長女が誕生した。子供を題材にした歌を(作り溜めてはいたが)半年ほど発表せずにいた。
すると結社の友人たちから、子供の歌が無いですねと指摘された。中には、すぐに作っておいたほうがいいと励ましてくださる方もあった。その後、妻の妊娠中の歌を発表すると、今度は安産を祈ってくださる方が何人もいらした。歌の持つ、個人の状況を伝える側面の大きさを再認識した。歌を読み合うとは人生を交わらせることでもあるのだ、と。
歌の中の緊密な詩語を読み解く楽しみがあり、しかしそうは言っても作者の生活や人間が作品から滲み出るのが歌のいいところでもある。しかつめ顔で「評価」しなくても、単純で大きな歌の船に乗ってしまう喜びが確かにある。以前の稿で、永田和宏の「歌の出来不出来以上に、何を伝えたかったのか、その伝えたい内容をもっと直截に受け止める読み方」をすべきだという発言を引用した。結社の選や通信添削講座を通じて、今、その言葉を痛切に感じている。
■『NHK短歌』2013年3月号より