教養

「黴菌のように作用する」 群衆とは何か


2021.09.29

ギュスターヴ・ル・ボンは『群衆心理』(1985年刊)の序文でこう綴っています。

 

 

群衆は、歴史上常に重要な役割を演じてきたが、この役割が今日ほど顕著なことはかつてなかった。

『群衆心理』 櫻井成夫訳 講談社刊 (以下同)

 

ル・ボンの言う「群衆」とは、そもそも何を指すのでしょうか。ライターの武田砂鉄(たけだ・さてつ)さんが解説します。

 

*  *  *

 

ル・ボンは「群衆の時代」の到来に強い危機感をもっていました。群衆が社会のなかで支配的な力をもつとどうなるか。『群衆心理』の「序論」で、彼はこう記しています。

 

幾多の文明は、これまで少数の貴族的な知識人によって創造され、指導されてきたのであって、決して群衆のあずかり知るところではなかった。群衆は、単に破壊力しか持っていない。群衆が支配するときには、必ず混乱の相を呈する。およそ文明というもののうちには、確定した法則や、規律や、本能的状態から理性的状態への移行や、将来に対する先見の明や、高度の教養などが含まれている。これらは、自身の野蛮状態のままに放任されている群衆には、全く及びもつかない条件である。群衆は、もっぱら破壊的な力をもって、あたかも衰弱した肉体や死骸の分解を早めるあの黴菌(ばいきん)のように作用する。文明の屋台骨(やたいぼね)が虫ばまれるとき、群衆がそれを倒してしまう。群衆の役割が現われてくるのは、そのときである。かくて一時は、多数者の盲目的な力が、歴史を動かす唯一の哲理となるのである。

 

群衆は「野蛮状態のままに放任」され、まるで「黴菌のように」文明を蝕(むしば)んでいく。この遠慮のない言い方、今、SNSでつぶやいたらたちまち炎上しそうです。そもそも「群衆」とは何でしょうか。ル・ボンがどのように定義していたのかを押さえておきます。

 

普通の意味で、群衆という言葉は、任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何(いかん)を問わないし、また個人の集合する機会の如何を問わないのである。

 

心理学の観点からすれば、群衆という語は、全く別の意味をおびるのである。ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具(そな)える。すなわち、意識的な個性が消えうせて、あらゆる個人の感情や観念が、同一の方向に向けられるのである。

 

社会のなかで大多数を占めているというだけなら「大衆」という言い方もできるでしょう。たとえば、大会場で行われるワクチン接種は「集団」接種であって、たまたまそこに集まった人々を「群衆」とは呼びません。

 

では、「群衆」とは何か。ル・ボンがそう呼んでいるのは、特定の心理作用を起こした人々です。どんな心理作用かというと、一つは「意識的個性の消滅」。いま一つが「感情や観念の同一方向への転換」です。

 

ですから、「群衆」は必ずしも大勢である必要もなければ、一か所に群れ集まっている必要もありません。集団を構成する人々の考え方や感じ方が統一され、濁流のように一つの方向に向かっていく。つまり、心理的にシンクロした集団という意味で、ル・ボンはこれを「心理的群衆」と呼んでいます。

 

心理的群衆のなかにあると、個人が単体で動いていた時には働いていた理性や知性、それぞれの個性といったものは鳴りを潜めてしまう。これは、どんな人にも起こりうるし、日常のなかで一時的に群衆化することもある、とル・ボンは指摘しています。

 

集団が「心理的群衆」になり変わるには、スイッチとなる何らかの「刺戟(しげき)」が必要です。それさえあれば、六人程度のグループでも心理的群衆になりうるし、日頃の生活基盤を傾かせるような国家規模の大事件が起こると、ネットでつながっているだけのような「離ればなれになっている数千の個人」の心が強烈に揺さぶられて、心理的群衆の性質を具えることもあるのです。

 

■『NHK100分de名著 ル・ボン 群衆心理』より

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