教養

「老い」を受け入れることの難しさ


2021.08.02

「老い」を「言語道断(スキャンダル)な事実」と表現したボーヴォワール。なぜわたしたちは老いを受け入れることができないのでしょうか。社会学者で、東京大学名誉教授の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さんが解説します。

 

*  *  *

 

アメリカの心理学者エリク・H・エリクソンによると、発達には、生理的、心理的、社会的、文化的という四つの次元があります。このなかでいちばん早く老いが始まるのはどれだと思いますか? そう、生理的次元です。日本では昔から「歯、眼、マラ」に老いの兆候が現れると言いますし、女性なら閉経という節目があります……。わたし自身も、あるときから徹夜ができなくなったことで、肉体の老いを痛感しました。これが生理的老いです。

 

社会的老いではっきりしているのは定年です。「明日からあなたは会社に来なくていい」と言われるのですから、これはぶっちぎりの移行です。アメリカの社会学者アーネスト・バージェスは、「定年退職者の役割とは、もはや役割を持たないことである」と言っています。社会的な死と言ってもいいかもしれません。ただしこれは被雇用者に限った話で、自営業者や農林漁業者にとっては、社会的な老いはゆるやかに進行します。

 

文化的老いとは、家族カテゴリー上の変化です。「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。これもはっきりしています。孫ができたら、何歳であろうが「おじいちゃん」「おばあちゃん」になります。江戸時代には隠居になるというのが文化的な老いでした。

 

四つの次元のなかでもっとも遅れるのが、心理的老いです。心のほうはいつまでも年をとれない。これはみなさん実感するところだと思います。わたしは高齢者介護を研究テーマにしている関係から、高齢者の方々とお付き合いがありますが、さる高齢の方に「わたしが高齢者の研究をしてわかったことがあります。それは、年齢と成熟には何の関係もないことです」と申し上げたら、「その通りです」と笑っておられました。哲学者の吉本隆明(よしもと・たかあき)は、老いについて「生理が強いる成熟」と語ったことがあります。実際には何ひとつ成熟していないのに、肉体的な衰えが自分に強いる変化がある(それを成熟と呼ぶべきかどうかはわかりませんが)ということです。

 

このように、心理的な老いは他の次元の老いに追いつかない。そのため自分に対する認識にズレが生じる。「あれっ、おれはまだ徹夜ぐらいできたはずなのに」「わたしが『おばあちゃん』と呼ばれるですって?」。そこに、自己同一性の喪失であるアイデンティティの危機が起きるのです。

 

■『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』より

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