教養

英雄的な老い、ボーヴォワール自身の老い


2021.08.09

『老い』の中で、ボーヴォワールは古今東西の知識人の実名を挙げて彼らの老いについて叙述しています。作家や学者などの知識職業人に対し辛辣な批評を繰り広げたボーヴォワールですが、中にはポジティブな記述も見られます。社会学者で、東京大学名誉教授の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さんが、例を挙げて解説してくれました。

 

*  *  *

 

ボーヴォワールが「ある種の老人には、なにかしら不屈なもの、さらには英雄的でさえあるものが存在する」と書いて取り上げているのが、哲学者のラッセルです。

 

一生をつうじて危険をおかすことをためらわなかった人で、その大胆さが晩年になって一段と光輝をます場合もしばしばある。バートランド・ラッセルは若いころから頑固で勇敢だったが、一九六一年に彼が八九歳のときほどそれがセンセーショナルな形で示されたことはなかった。核兵器反対の「百人委員会」のメンバーであった彼は大衆に呼びかけて非暴力デモを行ない、当局の禁止にもかかわらず他の人びととともに地べたにすわりこんだ。

 

日本でも、作家の瀬戸内寂聴(じゃくちょう)が89歳で原発再稼働に反対するハンガーストライキに参加しました。福島の原発事故のときも、団塊(だんかい)世代の呼びかけで60歳以上で決死隊を組織しようという動きがありました。そんな不屈で英雄的な人たちもいるのです。

 

ボーヴォワールも、陰惨な老いの例だけを書いているのではないという点では、目配りはとてもいいと思います。ネガティブなことだけを列挙していると思ったら、例外もあることをきちんと書いている。そこは周到で、彼女は老いをひと色に染めようとはしていません。やはり彼女が現実に向き合っているからでしょう。

 

現実とは多様で複雑なものです。それをきちんと反映している。ただし、実際にテクストを集めてみると、老いの否定的なイメージが圧倒的に多く集積する、ということのようです。

 

さて、このようにさまざまな職業の人たちの老いを読んでくると、「ボーヴォワールさん、あなたはどうなの?」と言いたくなりませんか。彼女は特に作家に厳しく、60歳を過ぎた人の書くものは二番煎じであるにもかかわらず、たいていの作家は「出がらしのお茶を何度でもつくって出す」とまで言っている。しかし、ほかならぬ彼女自身が60歳過ぎの作家であり学者です。厳しい指摘は自分自身に返ってくるのではないでしょうか。

 

わたしは、知識人の老いに厳しいボーヴォワールの筆致からは、彼女の自己批評の精神を感じます。自分が作家だから、作家の老いをよく見せようという保身は一切ない。事実だから書いている。『第二の性』もそうですが、彼女は自分の経験をも客観視して、その立場にある者を批評しているのです。

 

そこにあるのは彼女の透徹したリアリズムです。徹底的なリアリストとして、見たくない現実をしっかりと見ている。彼女がなぜそこまでできたのかと言えば、彼女は正直であることを自分に課した人だからです。自分に対して正直であることを課し、またパートナーであるサルトルとのあいだでも正直であることを互いに課した。その根底にあるのは、「人間とは何か」という問いに徹底して取り組む実存主義の思想です。

 

ボーヴォワールは自らその思想を実践しました。彼女は生涯にわたりサルトルとパートナーでしたが、サルトルはその最晩年、失明のため読み書きができなくなり、彼女が口述筆記をしたりしていました。サルトルはかつての知的生産性を失っていったわけですが、ボーヴォワールはその姿をあからさまに外に見せました。サルトルのファンからは「衰えたサルトルをこんなふうに公開するのはひどいじゃないか」という批判を受けました。けれども彼女は、それもサルトルだ、と世間にさらしたわけです。知識人が衰えていく姿を、自分たちの姿を含めてさらしたのです。

 

サルトルと死別したときも、彼女は「あの世でまた会える」といったロマンチックなことを一切言いませんでした。サルトルの死についての回想記『別れの儀式』(1981年、邦訳は83年)にはこう書かれています。

 

彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう。そういうものだ。私たち二人の生が、こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ。

(『別れの儀式』朝吹三吉ほか訳、人文書院)

 

本当に潔い人だと思います。

 

■『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』より

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