教養

人々の「忘れっぽさ」に依存するディストピア


2021.07.24

隣家に引っ越してきた17歳の少女クラリスに「あなた幸福?」と尋ねられ言葉に詰まるモンターグ。この問いかけは、やりがいのある仕事に就き、愛する(はずの)妻もいて、自足していたはずのモンターグに「果たして自分は幸福なのか?」という疑問を植えつけました。そんなクラリスとの出会いに続く場面で描かれるのは、モンターグと妻ミルドレッドの破綻した家庭生活です。名古屋大学大学院情報学研究科教授の戸田山和久(とだやま・かずひさ)さんは、「この小説の中で最もいやな気分になるパートのひとつ」と評します。

 

*  *  *

 

クラリスと別れ、帰宅したモンターグ。ミルドレッドが寝ている寝室に入っていくのですが、そこは闇と冷たさと死のイメージに満ちています。月も雲に隠れていて室内はまったき闇。クラリスと話していた屋外の方が明るかったほどです。そのとき、モンターグはさきほどクラリスに問われたことの答えに気づきます。「おれは幸福じゃない」。

 

明かりをつけないまま、部屋のありさまを心のうちに描いてみた。妻はベッドに長々と横たわっている。墓の蓋にのせられた死体のようにカバーもなく冷たく、両眼は目に見えぬピアノ線によって天井に固定され、動くこともない。そして両耳にはちっぽけな《巻貝》 ──超小型ラジオがおさまり、音響の大海の電子的波(は) 濤(とう) を、音楽とおしゃべりと音楽とおしゃべりを、彼女の眠らぬ心の岸にひびかせている。部屋はまさに無人だった。夜ごと打ち寄せる波音は妻のからだを乗せて沖合へ去り、彼女は目をあけたまま朝に向かってただようのである。この二年ミルドレッドがこの海で泳がなかった夜はなく、三年めも嬉々として身を浮かべるのは目に見えていた。

 

冷たい自分のベッドにもぐり込もうとするモンターグの足に何かが当たりました。火炎放射器の口火をつけて確認すると、それは睡眠薬が入っていたはずの空き瓶。ベッドの上のミルドレッドは薬の飲みすぎで死にかけていました。

 

ミルドレッドは主人公の妻であり、重要な登場人物のはずです。にもかかわらず、死にかけの半屍体として登場する。これは意味深ですね。生きていると同時に死んでいる、しかし、これが彼らの社会に生きる普通の人たちのあり方です。幸せな人生を生きているようで、じつは死んだも同然な存在として生きている。

 

モンターグが救急に電話すると、すぐに二人のオペレーターがやってきて、ミルドレッドの治療を始めます。ここで登場する機器も興味深いものです。一台は先端にカメラがついている装置。ひとつ眼の「黒いコブラ」にたとえられているのでおそらく管状になっていて、消化管の中を進み、毒を吸い出します。もう一台は、「患者の血を残らず汲(く) みだし、新しい血液と血清におきかえる」装置。オペレーターたちは体液を入れ替えることでミルドレッドのメランコリー(鬱)を治療しているのです。

 

ミルドレッドの処置を終えたオペレーターたちは「液化した鬱気と名付けようのない黒いどろどろ」をスーツケースに入れてモンターグたちの家をあとにします。メランコリーの語源はギリシア語で「黒い胆汁」。近未来の「医療」のはずなのに、黒胆汁(黒いどろどろ)、胆汁、血液、粘液の四種類の体液のバランスが崩れると病気になるという、ヒポクラテス(前5〜4世紀)以来の体液病理学説に基づいているというのがおもしろいところです。

 

機械と人間

 

胃洗浄機が蛇にたとえられていることに注目しましょう。機械と動物のハイブリッドはこの小説のあちこちに出てきます。ミルドレッドが耳にはめている超小型ラジオは「巻貝(シーシェル)」と呼ばれますし、少し先の場面では、犬と蜘蛛(くも) と蜂の特徴を備えた「機械猟犬(ハウンド)」が登場します。このように、機械を動物や昆虫のイメージで描いたり、動物の名前をつけたりすることには意味があります。この社会では、少なくともイメージの上では機械と動物の違いがない。ということはつまり、人間も機械になっているのです。人間であり機械でもあるということは、半分生きていて半分死んでいるようなもの。ミルドレッドもまさにそういう存在として登場しました。だから、救急で駆けつけたのは医者ではなくオペレーターなのです。なぜならそれは、「治療」ではなく「修理」だから。ミルドレッドの「修理」はまさに下水工事のイメージで、お風呂の排水口が詰まったから直しに来てよと頼んだら、バキューム装置を携えた作業員が来て「はい、こんなのが取れましたよ」と直してくれた、そんな感じです。映画では、オペレーターが去り際に「奥さんは新品同様になりますぜ」と言っています。

 

さて翌朝、体液を入れ替えたミルドレッドが目覚めると、前夜の記憶はすべてなくなっていました。自殺未遂をしたことや、そうしたくなるほどに空虚だったり悩んだりしていたことを、彼女はきれいさっぱり忘れている。それもそのはず、彼女は修理されて新品になったのですから。これは、この社会では人生はいくらでもリセット可能だということを意味します(のちに登場するミルドレッドのお友だちは三回結婚しています)。ミルドレッドは心の底に癒(いや)しようのない虚無感を抱えていて、そのため薬物依存に陥っている。けれども、自分がなぜ虚しいのか、なぜ死にたくなってしまうのかを考えることができない。なぜなら記憶もリセットされてしまうから。自分の過去と経験を忘れてしまうので、自分がなぜ辛いのかをさかのぼって考えることができないのです。これは突き詰めれば、自分が辛いのは社会がよろしくないからではないか、などと考えることもできないことを意味します。この社会では、こういう形で社会への反逆の芽が摘まれているわけです。

 

このディストピアに暮らす人たちの特徴のひとつは、記憶の不在、もしくは忘れっぽさです。社会の側から見れば、ひとびとの忘れっぽさに依存して維持されている社会ということになります。

 

■『NHK100分de名著 レイ・ブラッドベリ 華氏451度』より

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