教養

「奪」を詠う


2021.03.10

歌人で文芸評論家の寺井龍哉(てらい・たつや)さんの講座「短歌は越境する」。2月号の題は「奪」です。

 

*  *  *

 

三浦哲郎(みうら・てつお)の小説『忍ぶ川』は、人を思う一途な気持ちを、鮮やかに描いた名品です。大学生の「私」は、料亭「忍ぶ川」で働く志乃(しの)に一目惚(ぼ)れ。手紙で思いをうちあけ、二人は恋仲になります。しかしまもなく、実は志乃には、別の婚約者がいるらしいという情報が、「私」の耳に入ってきます。

 

「忍ぶ川」に駆けつけた「私」に、志乃は言う。「いいます。全部、お話します。でも、いまは、ここでは、お話できません。今晩、七時に、陸橋の上でお待ちになって」。七時が待ちきれない「私」は、待ち合わせを六時に早めさせて、料亭を出て街を歩きまわる。銭湯に入って頭からお湯を浴び、湯舟につかる。すると、ふいに「私」の頭に、「奪う」という言葉が浮かびます。「頭の血が、うそのように落ちた。なぜもっと早く、それに気がつかなかったのか。奪う。志乃を奪う。婚約者があったら、彼から志乃を奪えばいいのだ。私はひろい湯舟のなかを、湯をちらして「奪う、奪う」と泳ぎまわった。私は、なんとしても志乃を奪いとらねばならぬと思った」。

 

思わず湯舟を泳ぎたくなる一節ですね。取る、盗む、ではなく、「奪う」。ある程度の抵抗を受けることは承知のうえで、それでも望みをかなえようとする強さを感じます。今回はそんな「奪」が可能にする越境の場面に注目してみました。

 

襟元をすこしくづせり風入れておもふは汝(おまへ)かならず奪ふ

春日井建(かすがい・けん)『友の書』

 

じっと相手のことを見つめながら、たぎる恋情を静かに自分でたしかめる。襟元を少しだけ緩めて汗を乾かす動作は、知らず知らず熱くなる身体(からだ)を冷まし、冷静さを保とうとしているかのようでもあります。きっと二人は、自然に親しくなれるような状況にはないのでしょう。こちらから積極的に、強引に、暴力的なまでの働きかけをしてでも「汝」を自分のものにしたい、というのです。引き締まった歌の姿の背後に、触れれば火傷(やけど)するような、熱情が秘められた歌です。

 

■『NHK短歌』2021年2月号より

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