4冊の名著で災害を考える


東日本大震災から今年で10年。批評家、東京工業大学教授の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんが、4冊の名著を読み解きながら、災害について考えます。
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2011年3月11日、大地震と巨大津波が東日本一帯を襲い、多くの人びとのいのちを、日常と故郷を奪いました。あれから10年の歳月が経過し、メディアは被災地の新しい姿を映して、それぞれの場所で歩みを続ける人びとの今を伝えています。しかし、目に見える変化は、真実のほんの一端でしかないことも私たちは知っています。
災害が私たちに突きつけたのは何だったのか。そのことをあらためて考えるために、今回は4冊の名著を読んでいきます。寺田寅彦の『天災と日本人』、柳田国男の『先祖の話』、セネカの『生の短さについて』、池田晶子(あきこ)の『14歳からの哲学』。著者もテーマも異なりますが、いずれも私たちが見失っていたものを想い出すための扉となる作品です。
この4冊はどれも、随想の形式を採(と)っています。随想には、いつも二つの要素が折り重なるように存在しています。それは詩情と叡知(えいち)です。この二つが一つになったとき、はじめて随想が生まれるといった方がよいのかもしれません。
そして、この4冊を読み解いていく、鍵となる言葉は「つながり」です。
天災の猛威は、私たちが「自然」とのつながりを、いかになおざりにしてきたかという厳しい現実を突きつけました。近代科学が造りあげてきた建造物はことごとく破壊され、人口が集中する都市部では甚大な被害を生みました。それは、科学を盲信するばかりに、自然の声を聴かなくなってしまったことの帰結ではないか。そう警鐘(けいしょう)を鳴らしたのが、科学者であると同時に文学者でもあった寺田寅彦の『天災と日本人』です。
東日本大震災では多くの人命が失われ、同時に多くの遺族を生みました。遺族の悲しみと苦しみを大きくしているのは、近代化の波が書き換えてきた「死者」とのつながりのありようだと思います。古くから、日本には生者と亡くなった人たちとのあいだに豊かなつながりがありました。柳田国男の死者論である『先祖の話』は、そのことに目を開かせてくれます。
昨日まで傍(そば)で笑っていた人と言葉を交わすことも、その手にふれることもできない。懐かしい家も家路も、昨日までとはまったく違う姿をしている。災害や災禍は、明日という日が、必ずしも今日の延長上にやってくるものではないという現実を突きつけます。人は今を深く生きるほかありません。そのために私たちは「時」とのつながりを取り戻さなくてはなりません。その道程を記しているのがセネカの『生の短さについて』です。
そして最後に、私たちは真の意味で「自分/自己」とのつながりを確かめなくてはなりません。そのことを平易な、しかし熱い言葉で書き記しているのが池田晶子の『14歳からの哲学』です。大きな危機に直面したとき、私たちは生きる意味や指針を自分の外に求め、情報や知識をたよりにしがちです。しかし、池田晶子はそうした態度を強く戒めます。私たち自身に留まって、存在のありようを深く確かめること、そのこと自体が真理の発見を導くというのです。
東日本大震災のあとも、豪雨や台風による災害がいくつも起きました。そして、今、私たちは新型コロナウイルス感染症という新たな危機のただなかにいます。目に見えるつながりや利害関係にもとづいた「関係」や「交わり」は、ときに非常に脆(もろ)いものであることも経験してきました。今回取り上げる4冊は、それぞれ「自然」「死者」「時」「自分/自己」とのつながりを回復する道を照らしてくれます。その光の先で、互いに「いのち」を愛(いつく)しむとはどのようなことなのかも、皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。
■『NHK100分de名著 100分de災害を考える』より