教養

「稲妻の一撃」を否定したブルデュー


2021.01.06

社会学者で立命館大学大学院教授の岸 政彦(きし・まさひこ)さんの好きな映画監督はアキ・カウリスマキとポール・トーマス・アンダーソン。ジャズを好み、ウッドベースを嗜む。ボサノバではジョアン・ジルベルト、クラシックではグレン・グールド、ロックではエイミー・マンが好き。大衆酒場にもよく足を運ぶ……こうして嗜好を列挙してみると、「自分の好みはいかにもありきたりで、型にはまっている」と感じると岸さんは言います。

 

*  *  *

 

さきほど私は、自分がたまたま出会って好きになったはずの映画や音楽、好きで選んだはずのライフスタイルが、どうしてこうも類型的になるのかと述べました。ブルデューはまず、「たまたま出会った」を否定するところから論を始めます。

 

すばらしい芸術や音楽との、突然の出会い。それは魂を震わすような、ドラマティックな瞬間です。彼はこの出会いの瞬間、何か霊的な、偶然の、心と心とが直接ぶつかり合うような触れ合いを「稲妻の一撃」と言い換え、そしてあっさりとそれを否定します。「芸術作品との出会いというのは、普通人々がそこに見たがるようなあの稲妻の一撃といった側面などまったくもってはいない」。芸術作品に自然に出会うということそれ自体が幻想だというわけです。この偶然の神話の否定が、『ディスタンクシオン』全体を貫いています。

 

序文の冒頭近くでブルデューはこう述べています。

 

正統的文化に関わる趣味を自然の賜物(たまもの)と考えるカリスマ的イデオロギーに反して、科学的観察は文化的欲求がじつは教育の産物であることを示している。アンケート調査を見ると、あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好(プレフェランス)は、まず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結びついているということがわかる。

 

私たちの日常的な文化的行為、すなわち趣味は、学歴と出身階層によって規定されているというのです。

 

ふたたび自分の話になりますが、私が初めてジャズに出会ったのは中学生の頃でした。ある夏の日、赤いダブルデッキのラジカセで聴いていたラジオから、ウィントン・ケリーのピアノが流れてきたのです。その音楽はきらきらと輝いていました。木の葉が風で揺らいでいるような、光が波に反射してきらきら光っているような、そんなピアノでした。私は衝撃を受け、ものすごく感動し、これは霊的な出会いだ、まさに「稲妻の一撃」だと思っていました。

 

ところが今になって考えてみると、わが家は決して文化的に豊かな家ではなかったものの、当時はたまたま経済的な余裕があり、わずかですがジャズのレコードもありました。そのほか、百科事典や文学全集もあって、この世界には音楽や芸術のようなものが存在するということは、もともと身近に感じていたのです。つまり私には、音楽作品と出会うための下地があったのです。ブルデューは言います。

 

芸術を愛することの喜びである感情的融合、感情移入 Einfühlung という行為も、じつはひとつの認知行為、解明・解読作業を前提としており、そこには遺産として受け継いだ認識法や文化的能力の活用が含まれているということである。

 

要するに、芸術作品の素晴らしさを心から受容できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いの前提となるものを家庭や学校から学んでいる、言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。

 

もちろん、ジャズやクラシックという特定のジャンルをすでに知っている必要はまったくありません。しかし、そもそも音楽を鑑賞するという習慣、態度、構え、性向といったものがまったくないと、ラジオから流れてくるものはただの音にしか感じられないでしょう。音楽という芸術分野を鑑賞する態度や習慣や構えをまったく持たない状態では、たとえラジオからたまたま素晴らしいピアノが流れてきても、「ウィントン・ケリーめっちゃいい!」とは思えないのです。

 

そして、こうした習慣や態度や性向は、なかば無意識で作動します。ですから、『ディスタンクシオン』は「趣味」に関する本ですが、この趣味ははっきりしたホビー hobby という意味の趣味と、テイスト taste という意味の、趣味が良いとか悪いとかいうときの趣味(つまりそれはより無意識的な、習慣的な、身体的なものです)の両方を含むと考えてください。

 

■『NHK100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』より

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