教養

亡命のチャンスを見送って収容所に…『夜と霧』のフランクル


2013.03.25

『夜と霧』の著者である精神科医ヴィクトール・E・フランクルは、1941年のある朝、ナチス当局からの通達を受け取り、軍司令部に出頭するよう命じられた。この時フランクルは36歳だった。

 

ナチスの「ユダヤ人狩り」は、1939年の第二次大戦勃発に先立つ1933年頃からドイツ周辺でひそかに、しかし着実に進行しており、宣戦布告時、ドイツ国内には六つの強制収容所があった。その後2年ほどの間に、ポーランド、オーストリアなどの占領国内に新たな収容所が次々と増設された。

 

フランクルは出頭を命じられるや「ついに来たか」と、覚悟を決めた。収容所に送られる少し前、フランクルはアメリカに亡命できるビザを手に入れたが、そのチャンスを見送る。その理由を明治大学文学部教授の諸富祥彦(もろとみ・よしひこ)さんが解説する。

 

*  *  *

 

最初の出頭命令の時は、思いがけない執行猶予がフランクルに与えられました。接見したゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)に神経症や恐怖症についての説明をしているうちに、興味を持たれ、個人的な悩み相談のような雰囲気になっていったのです。数時間にわたって行われたその“カウンセリング”が功を奏したのでしょう、収容所への抑留は1年間延期されたのです。

 

フランクルはゲシュタポの管理下に置かれていたウィーンのユダヤ人病院の精神科に勤務することになりました。

 

こうして時間の余裕を得たフランクルは、遠からず来る“その日”までに、自分が積み上げてきた事例とそれをもとにした新たな理論をまとめ、世に問いたいと考え、すぐさま執筆に取りかかりました。いったん収容所に入れられたら、この世とはお別れかもしれません。自分が生きた証をどうしても残したいと思ったのです。

 

しかし、翌1942年9月頃、原稿が完成する前に、“その日”は来てしまいました。

 

この未完の原稿が、戦後フランクルのデビュー作として世に出ることになる『医師による魂の癒し』(邦題『死と愛—実存分析入門』霜山徳爾訳、みすず書房)です。

 

じつは、その少し前に、フランクルには収容所行きを逃れるチャンスがありました。あるつてによって、アメリカに亡命できるビザを手に入れたのです。しかしフランクルは、そのせっかくのチャンスを見送ることにしました。

 

ビザを使って自分一人海外に逃れて、愛する両親や妻を祖国に置き去りにしていくことはできないと考えたのです。

 

亡命して生き延びて、自分の使命である本を出版すべきではないか——。迷った挙句に目に入ってきたのは、家族とのつながりに重きを置くユダヤ教の教えでした。敬虔なユダヤ教徒であったフランクルは、その教えに従い、家族と共にウィーンにとどまる決意を固め、ビザをみすみす期限切れにしたのでした。

 

とらえられたフランクルと両親、そして結婚してまだ9カ月の妻は、チェコスロバキア(当時)のテレージエンシュタット収容所に送られました。父親はフランクルと所内でときどき顔を合わせることもありましたが、まもなく餓死します。

 

テレージエンシュタット収容所で2年を過ごしたのち、フランクルは悪名高きアウシュヴィッツへ送られることになりました。妻は弾薬製造に必要な雲母工場で働いていたため、アウシュヴィッツへの移送は免除されていましたが、フランクルに同行することを決意します。

 

1944年10月に夫婦は貨物列車でアウシュヴィッツへ移送されました。ここで夫婦は分けられ、フランクルはアウシュヴィッツに三泊しただけで、別の収容所へ移されます。一方、その時離ればなれにされた妻は、ベルゲン=ベルゼン収容所で殺されました。母親と兄もすでにアウシュヴィッツ収容所で亡くなっていました。こうしてフランクルは一人の妹を除く大切な家族を全員、収容所で失ったのです。

 

『夜と霧』は、フランクルのアウシュヴィッツ到着から終戦による解放に至るまでの半年間の収容体験をつづったものです。

 

■『NHK100分 de 名著』2013年3月号より

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