教養

「あなた方は虫の腹を裂いておられる」……『昆虫記』を馬鹿にする学者への糾弾


2014.07.25

公開されている母屋の居間には、ファーブルゆかりの品々が展示されている

『ファーブル昆虫記』(以下、『昆虫記』)で名を成した博物学者のジャン=アンリ・ファーブル。18歳で小学校の教師となり、その後は物理や化学を教える教師として高等中学(リセ)教壇に立つなどしていたが、その生活は決して楽ではなかった。懸命に働いて家族を養いながら、30歳で志した昆虫の生態研究にも打ち込み、論文も精力的に執筆した。『昆虫記』の翻訳を手がけたフランス文学者・作家の奥本大三郎(おくもと・だいさぶろう)氏によると、ファーブルは貧困と忙しい教職から脱出し、思う存分昆虫の生活史を調べるために、郊外の広い庭つきの家に住みたい──そう強く願っていたという。その願いが叶ったのは55歳の時だった。

 

*  *  *

 

オランジュに移り、教科書や啓蒙書を書くことで金銭面では安定した生活を手に入れたファーブルでしたが、まだ実現できていないことがありました。それは、自分の土地で暮らすことです。庭に何を植えても文句の言われない生活、心ゆくまで虫の観察や実験のできる生活でした。ある時ファーブルは、オランジュから7キロのところにあるセリニャン=デュ=コンタの村はずれに、1ヘクタールの庭つきの館が売りに出されていることを知ります。泉水があり、水に不足しない土地で、価格は7200フラン。その家を買うことを決めたファーブルは、1879年に引っ越しをします。

 

庭とは言っても、そこは放置されて荒れ放題になっている土地でした。ファーブルは、この土地を「アルマス」と名づけます。プロヴァンス語で「荒れ地」という意味です。ファーブルは、永い苦難の末に自分の土地を手に入れた喜びを、『昆虫記』にこう記しています。

 

これこそ私の願いだった。古代ローマの詩人ホラティウスが、「コレハ我ガ祈願ノウチニアリキ」と歌ったもの、すなわちわずかばかりの土地。もちろんたいして広くはない。が、囲いがあって、うるさい街道からは隔てられている。ものも実らぬ、太陽に灼かれた、アザミとハチの好む、忘れられたわずかばかりの土地。

 

ここなら、通行人に邪魔される恐れもなく、ジガバチやアナバチにものを尋ねることができるだろう。言葉のかわりに、実験によって質問をし、答を得るという、あの困難な、虫との対話に没頭することもできるだろう。

ここなら、遠くまで出かけて時間ばかり浪費することもなく、さんざん歩きまわってへとへとになり、注意力散漫になってしまうこともない。虫を攻略する方法をあれこれ考え、罠をしかけ、その効果のほどを、毎日、そしていつでもたどることができるであろう。

 

「コレハ我ガ祈願ノウチニアリキ」──そうだ、これこそ私の願いであり、夢であった。憧れ続けてきたのに、いつも未来という霞のなかに逃れ去っていた、私の願いであり、夢だったのだ。(第二巻第一章)

 

この、「通行人に邪魔される恐れもなく」というあたりに、ファーブルの切実な思いがにじみ出ています。虫の観察は絶えず人に邪魔されていたのです。たとえば、ちょうどアナバチが麻痺させた獲物を引きずっていく姿を一生懸命に追っている時、そういう大事な瞬間に限って人が通りかかったりする。1時間に1人の通行人もない田舎道で、運悪く暇をもてあました人につかまってしまったりするのです。また、朝、野良仕事に出かけた女の人たちが、夕方、ファーブルが相変わらず同じところで地面をにらんでいるのを見て、急いで胸で十字を切り、「かわいそうにねえ」などと言いあいながら通りすぎたこともあったようです。でも、自分の土地、自分の庭であれば、もう他人と鉢合わせする心配はありません。

 

ファーブルはこのアルマスを「生きた昆虫学の研究所」にしようと考えていました。彼がここで行ったことは、虫とともに暮らしながら続ける、生きた昆虫の観察です。そしてこの年、ファーブルはいよいよ、ドラグラーヴ社から『昆虫記』の第一巻を刊行します。ファーブルは、自分がアルマスで行う研究の意義、そして『昆虫記』に記す内容について、それを馬鹿にする学者たちを糾弾(きゅうだん)して次のように言います。

 

あなた方は虫の腹を裂いておられる。だが私は生きた虫を研究しているのです。あなた方は虫を残酷な目にあわせ、嫌な、哀れむべきものにしておられる。私は虫を愛すべきものにしてやるのです。

 

あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの歌を聞きながら観察しています。

あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現われ方を研究しています。

 

あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです。(第二巻第一章)

 

そして、自分が『昆虫記』を書くのは、本能の謎に挑もうとする、とりわけ若い人のためである。学者たちによってつまらないものにさせられてしまった博物学を、もう一度若者たちが好きになるようにするためである──と宣言します。

 

自分の土地、アルマスを得てからのファーブルは、比較的平穏な環境の中で、昆虫の研究と執筆に没頭し、ほぼ3年に1冊の割合で『昆虫記』全十巻を仕上げていきます。ファーブルは晩年までの36年を、この地で過ごしました。アルマスは現在、フランスの国立自然史博物館の分館となり、ファーブル博物館として保存され、一般の人々に公開されています。

 

■『NHK100分de名著』2014年7月号より

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