趣味

短歌に特有な「肉眼カメラ」で世界を写そう


2013.05.08

エルンスト・マッハ『感覚の分析』(邦訳・法政大学出版局・1971年)より

短歌とは「写生」である——そう定義づけるのは歌人の斉藤斉藤さんだ。一人称の詩形である短歌では、ある一人の人の肉眼カメラで、世界を写さなければならないという。誰でも知っている童話を例に、短歌をつくるとき、そして他の歌人の歌を読むときに必要な「肉眼カメラ」のあり方を斉藤斉藤さんが説く。

 

*  *  *

 

1 『ももたろう』と短歌はどう違うか

 

むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へせんたくに行きました。

 

『ももたろう』の書き出しです。では、「むかしむかし」と語るこの語り手は、誰でしょうか。おじいさんでもおばあさんでも桃太郎でもない、神様のような存在です。語り手は、いわゆる神の視点から、桃太郎の世界を自由自在にワープしながら、おじいさんやおばあさんや桃太郎に起こるすべての出来事を見て、語ることができます。

 

短歌は、一人称の詩型です。裏を返せば三人称の、神の視点は禁止ということです。もし短歌で『ももたろう』を語るとすれば、「柴刈りから帰ると、妻の様子がおかしい」と、おじいさんの視点で語りはじめるか、「甘い匂いのする暗闇でうとうとしていたら、突然、ぐらり、と世界が揺れた。」と、桃のなかの桃太郎の視点で、書き出さなければなりません。

 

そして、おじいさんの視点で書くと決めたのならば、おばあさんが川で桃を拾う場面を、見てきたようにリアルに書いてはいけません。川でおばあさんが見た光景は、おじいさんには見えなかったからです。それが短歌の、基本的な考え方です

 

2 神のカメラ/肉眼カメラ

 

昔話や小説だけでなく、映画もアニメもテレビドラマも、その多くは神のカメラで撮られています。

 

たとえばカップルが、公園のベンチに座って、会話している場面を描くとします。テレビドラマなら、ベンチの正面にカメラを据えて、ふたりの表情がよく見え、ふたりの会話がよく聞こえるように、撮影するかもしれません。

 

しかし短歌では、ベンチの正面から、カップルを撮ってはいけません。短歌は一人称の詩型ですから、カップルが正面から撮られつづけているということは、ある一人の人が、カップルを正面からじろじろと見つづけ、会話に聞き耳を立てつづけていることになってしまう。通報されてしまうからです。

 

神のカメラ、すなわち、それが人だったら通報されてしまう視点を、短歌で用いてはいけません。短歌で公園のカップルを写すとすれば、彼氏か彼女の肉眼カメラか、あるいは、カップルの会話を小耳にはさむ通行人や、噴水の向こうからぼんやりカップルを眺めるサラリーマンの肉眼カメラで、撮影しなければなりません。

 

短歌とは「写生」です。写生の歌をつくることとは、ある一人の人の肉眼カメラで、世界を写すということです。

 

部屋であお向けに横たわって、右目をつむり、つま先のほうを見てください。右上絵のような光景が、あなたの肉眼カメラに写るはずです。

 

わたしたちが一人で部屋にいて、窓の外をながめるとき、窓枠で切り取られた写真のように、外の景色だけを見ているつもりになりがちです。

 

しかし、窓の外をながめているときも、肉眼カメラには、じぶんのまぶたのへりや鼻の頭やジャケットの襟が、見えつづけています。意識して見ている景色だけでなく、無意識のうちに見えている事物とともに、わたしからはじまる世界を描く。それが肉眼カメラで撮る、写生です。

 

3 肉眼カメラの位置を割り出す

 

瓶(かめ)にさす藤(ふぢ)の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
正岡子規『竹の里歌』

 

「花瓶に挿してある藤の花がみじかいので、先っぽが畳の上に届いていないなあ」。それだけのことしか書かれていません。短歌の世界ではとても有名な歌なのですが、短歌に慣れていない人が読んだら、「で?」としか思わないのではないでしょうか。一体どうして、そんなに評価が分かれてしまうのでしょう。

 

短歌に慣れていない人がこの歌を読む場合、花瓶の正面に三脚を据えて、神のカメラで藤の花を撮った和風っぽい写真を、思い浮かべるのでしょう。そして、「藤の花が風流ですね(だから何?)」と、内心思うことでしょう。

 

それに対して、短歌に慣れている人がこの歌を読む場合、藤の花の見え方から逆算して、肉眼カメラの主が、どこから藤の花を見ていたのか、割り出す作業をおこないます。

 

まず、藤の花の先っぽが畳に届いていないとはっきり見えていることから、肉眼カメラは畳すれすれの低さにあるとわかります。そして肉眼の主は、畳の上に寝ているとわかる。座るか立つかして、高いところから見下ろしていたら、先っぽが畳にくっついているのか、わかりませんからね。

 

ここで、前述のマッハの絵を見てください。あお向けに寝ているわたしの左の床に、ちゃぶ台があると想像してください。ちゃぶ台の上には花瓶があって、藤の花が垂れ下がっている。その先っぽが畳にとどかないのを、あお向けのわたしが、じっと見ている。藤の花だけでなく、花を見ているわたしと、わたしの暮らす四角い部屋が、一首から浮かび上がってきます。

 

ところで、なぜわたしは、寝たまま花を見ているのでしょう。起き上がって近くで見ればいいのに。正解を言ってしまうと、作者はこのとき重い病気で、ずっと布団で寝ていたからです。

 

つまりこの歌には、神のカメラでは写せない世界が写っているのです。ながく病床にいる人の肉眼カメラにしか、写らない世界が写っている。そして読者はこの歌を読むことで一瞬、正岡子規の肉体にもぐり込んで、世界を眺めることができます。大きな病気をしたことのない人でも、あお向けに寝たきりで生きるとはどのようなことか、垣間見ることができるのです。

 

人間は誰しも、ひとりひとりの世界に閉じこめられて、自分以外の人になることはできません。しかし、写生の歌をつくること、そして、他人の写生の歌を読むことで、おたがいの肉眼を一瞬、交換することができます。他人の生を、内側から想像することができる。それが写生の、そして短歌の、いちばんの長所ではないでしょうか。

 

さて、ふだん写真やテレビやインターネットに囲まれているわたしたちの脳は、肉眼で見た景色を、神のカメラの映像のように、いつのまにか編集しています。神のカメラを捨てて、肉眼で世界を見るには、どうすればよいのでしょうか。(つづく)

 

■『NHK短歌』2013年5月号より

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