趣味

名棋士・加藤博二 九段がただ一度妻を叱った時


2014.01.19

加藤博二九段(左)と堀口弘治七段(右)。撮影:河井邦彦

2013年9月、90歳でこの世を去った加藤博二(かとう・ひろじ)九段は品格あふれる偉大な棋士だった。四段になった唯一の弟子、堀口弘治(ほりぐち・こうじ)七段は、師匠の指し口を「格調高く、私の遠く及ぶところではない」と表現する。

 

盤上以外では寡黙でやさしく、気持ちを荒げて人を叱ることはなかったとか。そんな堀口七段が、若き加藤九段の心温まるエピソードを紹介する。

 

*  *  *

 

将棋界の若手三羽烏(さんばがらす)と言われた原田泰夫、五十嵐豊一、加藤博二は、仲の良い朋友(ほうゆう)で青春時代を等々力のアパートの2階で、一緒に過ごした時期がある(原田先生は、既に結婚していたが、そのアパートには毎日のように入り浸っていた)。

 

五十嵐先生いわく「あのときは、はくちゃん(本当は「ひろじ」と読むが、みんな「はくじ」と読む) には経済的に世話になった」。また、原田先生がしょっちゅう来ては、師匠が稼いだ分を遊びに使っていたと笑っていた。

 

26歳のとき、師匠は肺病を患い、富士見の高原療養所に2年間入院した。当時、1日の費用は高級ホテルより高く、大山名人はじめ数多くの棋士から寄付を頂き、その費用をまかなったという(そのリストが今でもあり、回復後、その棋士に盤上で勝って全て恩返し(返済)したという)。

 

親も兄弟もいない師匠は「みんなに助けられた、その恩は一生忘れない」と口癖のように言われていた。その後、まもなく師匠は結婚する。そして生まれたのが「白樺の君(しらかばのきみ)の伝説」である。長期にわたる富士見での療養中、日々寄り添いながら看護を務めていた清楚(せいそ)な女性が奥様の国子さんというものだ。

 

「日暮れどき、美しき富士見の山肌に浮かぶ赤い夕陽に照らされて、背高く白馬の王子のごとくハンサムで凛々(りり)しき青年とうら若き乙女は見つめあい、白樺の木陰でよよと唇もきれんばかりに口づけをかわした」とまるで見ていたかのように語ったのが、師匠のことを「はくちゃん」と呼ぶ間柄の、揶揄(やゆ)のお好きな原田先生一流の創作話である。

 

実際は、師匠が療養を終え、富士見で下宿した先の奥さんの紹介で、その女学校時代の友人の娘さんが、奥様の国子さんである。奥様の話によると、当時東京で働いていた奥様の下宿先に師匠が遊びに来て、そのまま3年ほど、のらりくらりとおつきあいをされたという。

 

「一生お金には困らせない、そば屋の出前持ちをしてもお前を養ってやる」との言葉がプロポーズの決め手となり、奥様は惜しまれながらも職場を退職されたという。この師匠の言葉は56年間確かに守られた。

 

奥様や双子の娘さん(恵利さんと利香さん)によると、師匠は盤上以外では寡黙でやさしく、ほとんど気持ちを荒げて人を叱ることはなかったという。

 

当時、質素な生活が続く中、時々新米を頂くことがあり、近所におすそわけするため奥様が古いお米を出そうとすると、師匠がひと言、「新米をあげなさい」と叱られたそうだ。後にも先にも叱られたのは、この1回だけとのことである。

 

■『NHK将棋講座』2014年1月号より

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