教養

感染症の厄介さをそのままに描く『ペストの記憶』 3つの優れた特徴


2020.10.16

『ロビンソン・クルーソー』で知られるイギリスの作家ダニエル・デフォー。ペストがイギリスに上陸するとのうわさが飛び交うなか書いたのが『ペストの記憶』(1722年刊)です。1665年にロンドンを襲ったペスト大流行を、当時の公的文書や実際の逸話をもとにデフォー独特の複眼的視点で再現したこの作品は、現代の私たちにも大きな示唆を与えてくれます。本作の特徴を、英文学者、東京大学准教授の武田将明(たけだ・まさあき)さんに解説していただきました。

 

*  *  *

 

『ペストの記憶』の舞台は、同書執筆の57年前、1665年のロンドンです。王政復古から5年、ロンドンは経済活動が活発で、人口も増えていました。ロンドンの中心部は「シティー」と呼ばれる壁で囲われた区域で、古くから自治権を持っていました。デフォーの父も、商人であると同時にこのシティーの行政に関わっていました。『ペストの記憶』が主な舞台とするのはこのシティーとその周辺です。

 

フォー(デフォー出生時の姓)一家はペスト流行時には地方に避難していたため、この本に書かれている逸話はどれもデフォー本人が目撃したものではありません。しかし、父の兄にヘンリー・フォーという人物がいて、やはりロンドンに住んでいました。彼のイニシアルはH・Fで、しかも『ペストの記憶』の語り手と同じ馬具商人。本書の語り手は、このヘンリー・フォーがモデルであるとも言われています。

 

実際に作品を読む前に、『ペストの記憶』の形式上の特徴をあらかじめ3つ述べておきましょう。

 

ひとつは、緻密(ちみつ)なプロットといった、現在の私たちが慣れ親しんでいる小説ならではの構成がないことです。語り手のH・F以外に、作品を通して重要な役割を担う登場人物はいませんし、一貫した物語があるわけでもありません。しかしながら、そのような構造であるからこそかえって、疫病に襲われた人々の様々な反応や、疫病が集団としての市民心理に与えた影響などが、それぞれにリアルに、詳しく描かれています。

 

例として、ひとり娘が帰宅後にいきなり発症し、娘の太ももの内側に「致命的な徴(しるし)」を発見しておののく母親の様子が書かれた箇所を読んでみましょう。

 

こらえきれなくなった母親は蝋燭を放り出して、実に恐ろしい声で叫んだ。この世でいちばん度胸のある人でもゾッとするような声だった。しかも一度の叫び、一度の悲鳴では終わらなかった。恐怖が母親の精神を捕らえてしまい、彼女はまず気絶し、ついで意識を取り戻し、それから家じゅうを駆けまわり、階段を上り、また下り、その様子はまるで気が触れたようだった。いや、実は本当に気が触れてしまっていて、何時間もけたたましく叫び続けた。一切の分別を失っていた。少なくとも正気を保てずにいた。そして聞くところでは、完全に正気に戻ることはなかったそうだ。若い娘の方は、この瞬間にはすでに身体が死んでいた。壊疽が身体全体に広がったせいで、斑点が現れていたのである。

 

母親のショックの大きさ、病気の進行の速さが生々しく伝わってくる迫真の描写です。一方、ペストが近づいてパニックに陥った集団の様子もつぶさに観察されています。

 

特に貴族とか上流の紳士たちは、家族や召使もひき連れ、いつもの奥ゆかしさはどこへやら、市街地の西側からひしめきあって街を駆け抜けた。(中略)まったく、目に入るものといったら、家財道具や女や従者や子供を積んだ二輪や四輪の荷馬車、もっとお偉い方々が詰めこまれた立派な馬車、それと馬を操る御者たちばかりだ。これがみんな急いで逃げていく。道の向こうからは空の荷馬車が次々にあらわれ、従者の引く無人の馬たちもやってくる。残された人びとを運び出すために田舎から戻されたか、新たに送られたものらしい。他には、馬に乗った人も数えきれないくらいいた。ひとりで行く者もいれば、従者を連れた者もいたが、馬に荷物を載せ、旅支度を整えていると一目で分かるのはどちらも同じだった。

 

街を襲うペストを追って、書き手の視点が縦横無尽に動く。これがこの作品のダイナミズムです。

 

二つ目の特徴は、当時の公的な資料がしばしばそのまま引用されていることです。代表的なものが死亡週報で、これは一週間に亡くなった人の数や死因が教区ごとに示されたものです。デフォーはこうした資料を実際に調べ、少し文言を変えた程度でほぼそのまま転載しています。

 

三つ目は、語り手の意見がしばしば矛盾していることです。『ペストの記憶』にはさきほど挙げたような逸話やデータが次々に出てきて、その合間に語り手の意見や批評が記されます。ところが、彼の考え方は決して一貫したものではないのです。例えば、感染者を出した家を強制的に隔離する政策について、語り手はあるときにはやむを得ないと述べ、またあるときには無意味だったと述べています。

 

これは、デフォーが前に書いたことを覚えていなかったわけではなく、ひとつ目の特徴で述べたように、『ペストの記憶』が特定の立場にいる人物の視点だけで書かれていないことに起因するものでしょう。新型コロナウイルスの流行を体験した私たちは、例えば同じ問題が市民の側と行政の側でまったく違う見え方をしていると想像できます。このように、唯一の解決を見つけることの難しい感染症という問題の厄介さを、安易に整合性を図らずありのまま描いている点は、『ペストの記憶』の優れたところだと言えます。

 

■『NHK100分de名著 デフォー ペストの記憶』より

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