教養

「全世界の労働者よ、一つになれ!」 口実としてのイデオロギー


2020.03.05

写真:PPS通信社

社会主義体制下にあったチェコスロヴァキアで、反体制知識人として抗議活動に身を投じたヴァーツラフ・ハヴェル。彼は自分たちが属する体制を示す表現として「ポスト全体主義」という言葉を用い、その根幹を成すものとして「イデオロギー」に注目しました。著書『力なき者たちの力』の該当箇所を、チェコ文学者、東京大学准教授の阿部賢一(あべ・けんいち)さんが解説します。

 

*  *  *

 

青果店のスローガンは何を意味するか

 

ポスト全体主義」、「イデオロギー」といった言葉を論じようとすると、ややもすれば議論が抽象的になってしまいますが、ハヴェルは日常生活の具体例を挙げて論じていきます。それが「青果店の店主」の話です。

 

青果店の店主は、「全世界の労働者よ、一つになれ!」というスローガンをショーウインドウの玉ねぎと人参のあいだに置いた。なぜ、かれはそうしたのだろう? そうすることで、世界に何を伝えようとしたのか? 世界中の労働者が団結するという考えにほんとうに熱狂していたのだろうか? 熱狂したあまり、理想を公共の場で表明したいという抑えがたい必要性を感じたのだろうか? どうすれば労働者が団結し、それが何を意味するか、ほんの一瞬でも考えたのだろうか?

 

ここでの「青果店の店主」は、市場で野菜や果物を自分の判断で仕入れて販売する、私たちに馴染みのある青果店の主人とは少し異なっています。当時のチェコスロヴァキアは、計画経済の原理に従っていたため、青果店といっても個人経営の店ではなく、国営企業のネットワークに属していました。そのため、店で販売する商品も、店主の裁量で希望する分量を仕入れることはできず、決まった分量、決まった商品しか入手できないということもしばしばありました。青果店を営むことには、「ある種の組織の中で」という条件が付いていたのです。

 

そのような環境では、野菜を仕入れるだけではなく、商品を販売するに当たって政治的なスローガンを掲げることが求められていても、不思議ではありません。「全世界の労働者よ、一つになれ!」というスローガンは、『共産党宣言』の結びの言葉であり、社会主義体制下ではよく目にする標語の一つでした。その理念を青果店でも表明することが求められたのでしょう。

 

ですが、ハヴェルはあえて「なぜ、かれはそうしたのだろう?」と問います。長年誰もがやっている慣習的な行為の意味を、問い直すのです。「皆がやっているから」「断れば厄介なことになるかもしれないから」。店主はそう考えて、「生活していくために必要なこと」をしたにすぎないのかもしれません。スローガンを置くという行為は、比較的安定した生活を保障してくれる何千とある「些細なこと」の一つにすぎないからです。けれども、青果店店主は、このメッセージが本当は何を意味しているかを考えてはいません。本当に労働者の団結を考えているわけでもありません。スローガンを置くことは、せいぜいその言葉に対して大きな抵抗を感じていないこと、さらに、異議申し立てはしていないという消極的な意見を提示するものでしかなく、ただの「隠れ蓑(みの)」にすぎないのです。

 

イデオロギーが口実となる

 

「労働者」という一般的な表現ではなく、主語が「私」の文章を掲げなければならないとしたら、青果店店主はどう感じるでしょうか。

 

もし「私は恐怖心を抱いているので、ただただ従順なのです」というスローガンをショーウインドウに置くとしたら、青果店店主はスローガンが意味するものについて無関心ではいないだろう。

 

自分の弱みを人前にさらけ出すことは勇気のいることです。「私」を主語にしたスローガンを置くとしたら、おそらく店主は躊躇(ちゅうちょ)することでしょう。一方で、主語が「労働者」のスローガンは、躊躇なく置くことができる。それは、このスローガンが「記号」の形をとっているからだ、とハヴェルは説明します。「労働者」という大きな主語を使ったスローガンは、例えば「恐怖心を抱いている」というような、店主=「私」の本当の気持ちを覆い隠します。その「私」を覆い隠す高いところにあるものがイデオロギーです。

 

イデオロギーは「世界と関係を築いていると見せかける方法」であり、「ヴェール」、「口実」だとハヴェルは言います。

 

「堕落した存在」、疎外、現状への迎合を隠すことのできるヴェールである。つまり、ありとあらゆるものに用いることができる口実である。全世界の労働者の団結という表向きの関心によって、職を失ってしまうのではないかという恐怖心を隠す青果店店主から、労働者階級への奉仕という言葉を用いることで権力に留まり、自身の利益を覆い隠す高位の役人にいたるすべての人に用いることができるものである。

 

イデオロギーの第一の──つまり、「口実」としての──機能は、ポスト全体主義体制の犠牲者かつ支援者である人びとに対して、体制は、人間の秩序、宇宙の秩序にふさわしいものであるという錯覚を与えることである。

 

「社会主義」のため、「国家」のため、「国民」のため、「労働者」のため──こうした「記号」としての表現は、内実を伴っていないにもかかわらず、それらしい意味のあることのように聞こえます。しかし、実際には何を意味しているのかが明確ではないため、その表現は恣意的になっていきます。例えば、「国民の要望に応える」という表現が意味するのは、大抵の場合「ある特定の国民の要望」であるにもかかわらず、「全国民」または「大多数の国民」と一般化されて用いられるということは、どの時代の、どの政治体制下でも起きることでしょう。

 

■『NHK100分de名著 ヴァーツラフ・ハヴェル 力なき者たちの力』より

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