教養

ロシア文学者・亀山郁夫氏の“カラマーゾフ体験”


2020.01.18

今なお世界中に読者を持つドストエフスキーの作品『カラマーゾフの兄弟』。ロシア文学者で名古屋外国語大学学長の亀山郁夫(かめやま・いくお)さんも、高校2年生の時に初めてこの作品に触れ、大きなショックを受けたそうです。亀山さんが高校生時代を振り返って語ります。

 

*  *  *

 

『カラマーゾフの兄弟』は、19世紀ロシアの文豪フョードル・ミハイロヴィチ・ ドストエフスキーが、59年の生涯の最後に書き上げた長編小説です。私がこの小説を最初に読んだのは高校2年生の終わりで、一つ上の先輩が書いた『カラマーゾフの兄弟』の読書感想文がある新聞社主催のコンクールで全国2位となり、がぜんライバル意識を掻きたてられたのがきっかけです。というのも、私は中学3年生の夏にドストエフスキーの『罪と罰』を読み、主人公のラスコーリニコフに一種の憑依に近い体験をしていたことがあって、ドストエフスキーは自分にしかわからない、という妙な自信を抱いていたことが原因です。ですから、同じ作家の小説をほかの人が読んで読書感想文を書き、全国で認められることを、何か許しがたいことのように思ったのでした。いま思えばそれは若い私の驕りだったわけですが、とにもかくにも、そんな私のプライドがこの長編に挑戦する一つのきっかけになったことはたしかです。

 

『カラマーゾフの兄弟』は、19世紀後半、農奴解放後のロシア社会の混沌を背景にした、酒飲みで女好きの田舎地主フョードル・カラマーゾフの殺害事件をめぐる「犯人探し」の物語です。事件の謎に関わるのは、彼の3人(ないしは4人)の息子たち。読み始めた私はたちまち大きなショックを受けました。これは自分の、あるいは自分の家族を描いた物語ではないか。そう思えたのです。

 

私は6人きょうだい(兄3人、姉2人)の末っ子で、教師だった厳格な父のもとで育ちました。教育行政をあずかる身として大きな挫折を経験した父は、そのうっ屈から軽い障害を持つ長兄をあからさまに差別し、そのため家庭内の雰囲気は暗くよどんで、思春期の私には耐えがたいものがありました。私は心ひそかに、父さえいなければこの家庭がどんなにのびやかで自由な空気に包まれるだろうという思いを持ち続け、現実逃避の道ばかり考えていました。読書、音楽、演劇クラブなどです。そんななか、『カラマーゾフの兄弟』を手にしたのです。小説のかなり早い段階で現れる「父殺し」という言葉に出会ったときの驚きは、いまもって忘れることができません。「父を殺す」、そのモチベーションがじつは自分のなかにもあることをそのとき初めて発見し、衝撃を受けたのです。

 

読書を進める私の心のなかには、常に後ろめたさが小さく渦を巻いていました。 徐々に物語のなかに引き込まれていったのですが、主人公のドミートリーとグルーシェニカによるモークロエでのどんちゃん騒ぎが終わり、予審の場面に入るあたりから話の流れがつかめなくなっていきました。「父殺し」という犯罪が持つ複雑さ、 また訳文の難しさが主な原因だったと思います。結局、誰がフョードルを殺したのかもほとんど読み取れないまま、何とか最後までたどり着いたというのが、実情です。それが私の一度目のカラマーゾフ体験でした。

 

高校2年生の私が混乱に陥ったように、この小説は長大で、とてつもなくスケー ルが大きく、きわめて複雑な構成を持っています。これまでこの小説に挑戦した方のなかには、どうしても最後まで読み通すことができなかったという人が少なからずいることでしょう。にもかかわらず、『カラマーゾフの兄弟』はいまでも、世界中の多くの読者によって読み継がれている。マラソンランナーになった意気込みで2000ページを超える距離に挑戦し、完走しているのです。

 

『カラマーゾフの兄弟』の魅力は、端的に言って二つあります。一つは、ロシア的な精神性、いや、ロシアに生きる人々の心をこれほど豊かに深く描いた小説はないということ。もう一つは、ミステリーとしての文句なしのおもしろさです。

 

加えてもう一つ、ある一定のサイクルでドストエフスキーを読み続けてきた私が最近とくに実感するのは、登場人物一人ひとりの驚くべき生命力です。これは、現代の作家がなぜ『カラマーゾフの兄弟』に匹敵する小説を書き得ないのかという問題にもつながってくるのですが、『カラマーゾフの兄弟』の登場人物たちは、みな例外なく桁外れの生命力とある種のプライドの持ち主です。どんなに貧しい人々のなかにも傲慢さと自信、言い換えれば「誇り」があります。ところが現代の作家は、 そうした強いプライドを持ち、粘っこく生きている人間の存在がほとんど描けていないように思えます。一人ひとりの生命力や誇りは、おのずからその場に激しい緊張感を生み出します。19世紀のロシアに限らず、格差社会が広がる現代においても、そうした人たちは確実に存在するはずですが、それを描くことは難しい。逆に言えば、だからこそ現代の読者は、ドストエフスキーが描くそうした、誇り高い、 生命力に溢れる人々の生きざまをとおして、生きる糧、生きる慰めを求め続けているのかもしれません。

 

■『NHK100分de名著 カラマーゾフの兄弟』より

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