教養

曖昧さを好んだドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』に埋め込んだ時代性


2020.01.19

徹底して曖昧さを好んだ作家ドストエフスキー。代表作のひとつ『カラマーゾフの兄弟』は、だからと言って時代や歴史と完全に切り離された作品ではありません。ロシア文学者で名古屋外国語大学学長の亀山郁夫(かめやま・いくお)さんが、同作の時代背景を語ります。

 

*  *  *

 

『カラマーゾフの兄弟』の歴史的な背景についても述べておきましょう。そもそもこの物語は、いつ、どこを舞台にして生まれたのか。

 

ドストエフスキーは、小説のなかで具体的な年号に触れたり、歴史的事実をそのまま描いたりすることを徹底して嫌う作家です。土地の名前を明かすことさえ、 嫌う場合が少なくありません。たとえば、『戦争と平和』の作者であるレフ・トルストイとはその点でまったく資質を異にしています。歴史的事実を視野にとらえながら、具体的な背景は徹底してぼかし、人間そのものの描写に焦点を当てる、それがドストエフスキーの手法です。ドストエフスキーは同時に、たんに歴史的事実だけでなく、登場人物の行動の核心部と心理の間に横たわる部分も意図的にカムフラージュすることが少なくありません。これはおそらく、検閲を常に意識しながら書かざるを得なかったドストエフスキーの宿命であると同時に戦略でもありました。他方、彼の小説が、異界との接触(たとえば悪魔の登場)といったモチーフを物語に組み込むにいたったことも理由の一つに挙げられるかもしれません。歴史的な事実や土地の名前をはっきりと名指しすることは、小説の持つ幻想的雰囲気を壊す恐れがあるからです。とにもかくにもドストエフスキーは徹底して曖昧さを好んだ作家です。事実と嘘、現実と非現実の境界に確実な一線を引いてしまうことで、一種のオーラが失われることを恐れたと考えることもできるでしょう。

 

とは言うものの、ドストエフスキーの小説がいっさいの歴史的事実に背を向けて成立しているということではありません。それどころか彼は、物語のさまざまな場所にいくつものヒントをしのばせているのです。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』では、「著者より」と題された序文に、この「第一の小説」に記される出来事はいまから「13年も前」に起こったことだと記しています。では、13年前とはいったいいつのことなのでしょうか。

 

この問題をめぐっては、できるだけシンプルに考える必要があると思います。

 

まず、この小説が、1861年のアレクサンドル二世による農奴解放後のロシアを舞台にしていることは明らかです。小説の第4部で、陪審制度(1864年に導入)に基づく裁判が描かれていることがその証です。そこで私はこう規定しようと思うのです。13年後の「いま」とは、ドストエフスキーがこの小説を書き始めた時点、すなわち、雑誌連載が始まった1879年である、したがってその 「13年前」とは、ずばり1866年である、と。

 

では、この当時のロシア社会はどのような状況にあったのでしょうか。

 

まず、まっさきに目に入るのが、1861年のアレクサンドル二世による農奴解放です。まさにこの施策によって、約250年におよぶロマノフ王朝の屋台骨に鋭い亀裂が走りました。近代化に乗り遅れ、クリミア戦争(1853〜56)に敗れたロシアにとって、ヨーロッパ的な近代国家の道を目指し、工業化を図るには、何よりも安価な労働力が欠かせませんでした。これによって、第一に、ひと握りの貴族=地主階級と圧倒的な数の農民という二極の構造が崩れ始めます。 しかし、農奴解放は、より赤裸々なかたちで新たな二極化した社会を現出させました。行き場を失った多くの元農奴たちが、都会の底辺にうずくまる「ルンペンプロレタリアート」と化していったのです。彼らはもはや、キリスト教の神に救いを求めることはできませんでした。何よりも、欲望の実現をいとも容易なものとする金への執着とアナーキーな自由が、解き放たれた彼らの心と現実の生活を支配し始めていきます。こうして、農奴解放以後に書かれたドストエフスキーの小説のすべての中心的テーマの主役を金が担い始めます。『罪と罰』にしろ、『白痴』にしろ、ほとんどの登場人物が、金を中心に、車座に配置されたかのような印象すら受けるほどです。

 

『カラマーゾフの兄弟』も例外ではありませんでした。拝金主義は、登場人物たちの心理や行動を理解する上で欠かせない事実です。父親のフョードル・カラマーゾフは自分の財産を息子たちにびた一文も渡さないと息巻き、長男のドミートリーも、婚約者に借りた3000ルーブルを返すために身も心も引き裂かれた状態で金策に走ります。父親と長男が奪い合うグルーシェニカは、初め蓄財に励むエゴイスティックな女性として登場します。カラマーゾフ家の次男イワンも、料理 人スメルジャコフも、ある意味で金の囚人です。

 

もう一つ述べておきたいのは、この拝金主義の高まりと呼応するかのように革命の機運(すなわち人民主義)が台頭し始めたことです。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』に着手する時期は、まさに政治テロルがクライマックスを迎えようとしていました。

 

1878年1月 ペテルブルク特別市長官フョードル・トレーポフ将軍暗殺未遂事件

1878年8月 憲兵総監メゼンツォフ刺殺事件

1878年12月 陸軍将校ドゥブローヴィン事件

1879年3月 ドレンチェリン将軍暗殺未遂事件

1879年4月 参謀本部前皇帝暗殺未遂事件

1879年11月 皇帝列車爆破事件

 

驚くべき頻度と言わざるをえません。ところが、さきほど「第一の小説」の舞台の年号として導き出した1866年は、その先駆けとなった事件、すなわちアレクサンドル二世の最初の暗殺未遂事件が起きた年だったのです。ちなみに、この暗殺未遂事件を起こして処刑された人物の名は、ドミートリー・カラコーゾフ。この人物の名前をみなさんは、しっかりと記憶にとどめておかなくてはなりません。

 

■『NHK100分de名著 カラマーゾフの兄弟』より

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