教養

西田幾多郎が拓いた「哲学の道」


2019.11.09

『善の研究』は日本を代表する哲学者、西田幾多郎(にしだ・きたろう)の最初の著作であり、主著と呼ぶべき著作です。西田にとっての「哲学の道」とは何であったのか、批評家、東京工業大学教授の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんが解説します。

 

*  *  *

 

「問い」の哲学

 

西田幾多郎の文章は難解なことで知られています。なかでも『善の研究』は、もっともむずかしいものであるとされています。もちろん、簡単な文章ではありません。それは一見しただけで分かります。

 

ただ西田は、わざと難解に書いているのではないのです。彼は自分が歩いた道をむずかしく語ったのではなく、ありのままに語ろうとしただけです。

 

現代の私たちはこの本で西田が用いているのよりも、ずっと平易な言葉で哲学について語ることができます。しかしそれが可能なのは私たちが、彼の拓(ひら)いた「哲学の道」を歩いているからなのです。

 

今日の私たちにとって「哲学」はすでに存在するものですが、西田にとってはそうではありませんでした。当時の日本に体系だった哲学は存在しておらず、西田は彼が直面していた「問い」を深化させることができる言葉と文体を発明しなくてはなりませんでした。誰も歩いていない困難な「哲学の道」を切り拓いた人だったのです。

 

近代日本において、哲学は西田幾多郎に始まるといわれます。「哲学」をどう考えるかによって見解は変わってきますが、西洋哲学とのたたかいを経て、新しい言葉によって叡智の世界を語る、という味では西田は、日本で最初の哲学者だといってよいと思います。『善の研究』で西田が取り上げた「知と愛」「宗教」「善」「実在」「純粋経験」という問題は、どれ一つとっても簡単ではないことが明らかです。ですから、私たちもむずかしいからといってこの本を読むのを止めるまえに、それが、どのようにむずかしいのかを考えてみるのは無駄ではありません。

 

言葉を再定義してみる

 

究極的なものを目指して「考える」こと、それを西田は「思惟(しい)」という言葉で表現します。この言葉は、現代人が『善の研究』を読むうえで、「つまずき」になる言葉かもしれません。

 

哲学の基盤である「考える」あるいは「思惟」するという行為をめぐって西田は次のように書いています。下線部に注目しながら読んでみてください。

 

……思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はないと思う。しかし余(よ)はこれがために思惟は単に個人的で主観的であるというのではない、前にもいった様に純粋経験は個人の上に超越することができる。かくいえば甚(はなは)だ異様に聞(きこ)えるであろうが、経験は時間、空間、個人を知るが故(ゆえ)に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中において限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない。

(『善の研究』第一編純粋経験 第二章 思惟、下線は著者)

 

まず、ここで西田がいう「経験」も「思惟」も、今日私たちが用いる「体験」や「思考」といった類義語とは、まったく異なる意味を含んでいます。

 

彼にとって「経験」とは、個から出発して個を超えていこうとすることでした。また、「思惟」は、単なる「思考」の延長ではなく、「考える」という行為を通じて「個」を超えていこうとする試みだというのです。

 

別のいい方をすれば、「経験」とは、「個」を超えた場所で生きることであり、「思惟」は、個人的思考から普遍的思考へと変貌(へんぼう)していくことだともいえそうです。

 

現代を生きる私たちは、個人がそれぞれの「経験」を深めていく、と考えがちです。しかし、西田は、個は、「人類の経験」によって形成されている、と考えています。

 

現代の私たちに西田の言葉がむずかしく映るのは、人生の立ち位置が異なるからかもしれません。西田は「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と述べています。

 

ここでの「経験」は「人類の経験」です。西田は、「個」の問題を真剣に考えたいのなら、私たちは世界を「人類」の眼、普遍の眼で見なくてはならない、と述べています。読者である私たちも、この本を「個」の眼で読むだけでなく、内なる「人類」──あるいは内なる普遍──を目覚めさせ、読み直してみなくてはならないのかもしれません。

 

私たちが宿しているもう一つの「眼」を開くこと、それが西田にとっての「哲学の道」だったのです。

 

■『NHK100分de名著 西田幾多郎 善の研究』より

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