教養

四国の森と魂のこと


2019.09.11

大江健三郎は自分自身、妻子や妹をモデルとした人物を長編作品に登場させることで知られています。作家で早稲田大学教授の小野正嗣(おの・まさつぐ)さんが、大江文学の中でも最高傑作のひとつと言っても過言ではないという『燃えあがる緑の木』の冒頭を読み解きます。

 

*  *  *

 

「屋敷」のお祖母(ばあ)ちゃんが、あの人をギー兄さんという懐(なつ)かしい名前で呼び始められた。森に囲まれたこの土地で、新しい伝説となっている人物が再来したように。お祖母ちゃんがいったんそう呼ぶと、「在」でも谷間(たにま)でも自然にあの人をギー兄さんと呼んでこだわりがなかった。地下に伏流していた名前が、湧(わ)き水となって地表へ出たのだ。

 

百年近く生きたお祖母ちゃんの、さらにゆっくりと穏やかになっていた生涯(しょうがい)の、最後の日々のことだった。初めのうち、私はお祖母ちゃんの口にする言葉の端ばしにギー兄さんという名前を聞きとるたび、古めかしい言い方になるけれど、彼女が十年前に非業の死をとげたさきのギー兄さんを追憶しているのだと思っていた。そのようにして、気にとめずやり過していたのだ。ところがある日、お祖母ちゃんは、あいかわらず夢見ているような表情ながら、──農場のギー兄さんを呼びにいてもらいましょうな! といって、私がその確かな意味を了解するまで、そちらだけ見える片眼(かため)をそらさなかった。お祖母ちゃんが死んだ人の幻覚に寄りそっているのでないことはあきらかだ。黄泉(よみ)の国へ? と軽口で応じることもできない。農場の、とあの人の居場所を指定しているのだから。

 

物語の舞台は、四国の森に囲まれた土地です。その土地に代々、その大きな古い家屋と地所ゆえに「屋敷」と呼びならわされてきた名家の当主が、地元の人たちが敬意をこめて「オーバー」と呼ぶ「お祖母ちゃん」です。高齢のお祖母ちゃんは、いま末期癌(がん)を患い確実な死を迎えつつあります。そのお祖母ちゃんが、語り手である「私」に、「ギー兄さん」を呼んでくるように頼むのです。

 

語り手の「私」は、年老いたお祖母ちゃんが、「あの人」を「さきのギー兄さん」と取り違えているのではないかと考えるのですが、そうではなく、お祖母ちゃんが意図的にそう呼んでいることを理解します。

 

この「あの人」とは誰なのでしょうか? この語り手の「私」とは誰なのでしょうか? 「さきのギー兄さん」とは?

 

「あの人」こそ、この『燃えあがる緑の木』の主人公です。本名は隆(たかし)といいます。彼の父親は「屋敷」と縁戚関係にある外交官で(故郷の人たちには「総領事」と呼ばれています)、そのため幼いころから海外暮らしを経験しています。両親の離婚などがあり、高校のときに日本に帰国し、父親と遠縁で幼なじみの東京に暮らす小説家「K伯父さん」──もちろん大江健三郎をモデルとする人物です─の家に世話になります。千葉大学に入るものの、激しい内ゲバ(内部闘争)を繰り広げていた学生運動に関わったために、大学を辞め、しばらくして東京大学に入り直し、農学部に進学します。卒業後は東京の出版社に就職します。

 

ところが二年後、会社を辞めたいとK伯父さんに相談します。かつての学生運動で同じ党派であったもと同志と再会し、対立党派から自分にも周囲にも厄介な干渉がなされる懸念が生じたからです(これが決して杞憂ではなかったことが、小説の最後に証明されるでしょう……)。しかしそれだけが理由ではありません。「魂のことをしたい」と決意を固めたからなのです。

 

「魂のことをしたい」? ギー兄さんはK伯父さんに説明します。

 

責任転嫁(てんか)する意志はないけれど、自分としては魂のことをしたいという言い方を、K伯父さんの書かれたものから借りています、とギー兄さんは正直にいったということだ。そこでもし、いまからあなたが魂のことについて専一に始められるとしたら、どのようなやり方があると思われるでしょうか?

 

そのような問いかけを受けて、K伯父さんは二つの助言を与えます。ひとつは父親の任地であるオーストリアに行き、ヨーロッパで人生を再出発させること。そしてもうひとつが、四国の「屋敷」に行くことだったのです。

 

あすこは森のなかで、教会とか修道院とかがあるわけじゃない。しかしひとりで魂のことをするつもりならば、それに適当な場所はあるよ。お祖母ちゃんが、川筋の通りから離れた丘の上にさ、農地とちょっとした住居を持っていられる。それを彼女は僕が帰郷するか、ヒカリをそこへ送り込むかする時のことを考えて維持してきた。あすこを使って、きみが魂のことに専念する、というプランはどう?

 

隆が選ぶのは二つ目の選択肢です。こうして隆は四国の森に移住するのですが、その際に彼は、「さきのギー兄さん」と呼ばれる人が、志なかばでこの土地に残していった事業を引き継ぐことになります。

 

■『NHK100分de名著 大江健三郎 燃えあがる緑の木』より

このエントリーをはてなブックマークに追加

  • テキスト定期購読

  • テキストビュー300×56

000000817942019_01_136

NHKなりきり!むーにゃん生きもの学園 なりきり生きもの図鑑(4)植物

2019年10月24日発売

定価 3080円 (本体2800円)

000000817932019_01_136

NHKなりきり!むーにゃん生きもの学園 なりきり生きもの図鑑(3)水辺の生きもの

2019年10月24日発売

定価 3080円 (本体2800円)

000000817922019_01_136

NHKなりきり!むーにゃん生きもの学園 なりきり生きもの図鑑(2)動物

2019年10月24日発売

定価 3080円 (本体2800円)