教養

シュピリの優れた自然描写が浮き彫りにするハイジの幸福


2019.06.28

画/パウル・ハイ 出典/J・シュピーリ作、矢川澄子訳 『ハイジ』 福音館文庫

両親を亡くして以来、母の妹のデーテに育てられていたハイジ。デーテが都会のお屋敷で働くことになったため、ハイジは「アルムのおじさん」こと母方の祖父の元へ預けられることになりました。村の人たちとの交流を拒絶し、一人山小屋で暮らすおじいさんでしたが、村の人の心配をよそに、ハイジはおじいさんとの山の暮らしにかけがえのない幸福を見出していきます。早稲田大学教授・ドイツ文学者の松永美穂(まつなが・みほ)さんが、ハイジが山で感じた幸福と、それを見事に描き出したシュピリの表現力について解説します。

 

*  *  *

 

日当たりもよく眺めもいい、アルムのおじいさんの小屋に到着したハイジとデーテ。おじいさんはパイプをくわえて外のベンチに座っていました。ごわごわした眉毛の下から、突き刺すような鋭い目でおじいさんに見つめられても、ハイジはまるで動じません。おじいさんの眉毛と長いひげを不思議そうにじっと観察しています。デーテは切り口上に自分の事情をまくしたてると、おじいさんに「とっとと下りていけ!」と言われるまでもなく、ハイジを置いて山から下りていきました。

 

ハイジと二人きりになったおじいさんは、意外にも優しくハイジに接します。ハイジもおじいさんとその小屋がすぐに気に入り、丸窓から谷の景色が見晴らせる屋根裏に、自分で干し草を積んで手作りのベッドをこしらえました。おじいさんはそこに麻布(あさぬの)のシーツをかけてあげ、食事の用意をします。それは、長い鉄のフォークに刺して火で焙(あぶ)り、黄金色(こがねいろ)にとろけたチーズをパンに塗ったものと、しぼりたての山羊のミルクでした。

 

「こんなにおいしいミルクを飲んだのは初めてよ」

 

それからおじいさんはハイジのために手早く木の椅子を作ってあげます。夕方になり、ペーターが連れた山羊たちが山から下りてきました。そのなかにはおじいさんの山羊である白いスワンと茶色のクマもいました。おいしい食事や山羊たちとの触れ合いに満足したハイジは、手作りの寝床でぐっすり眠ります。その夜は風が強く吹き荒れ、激しく音を立てていましたが、真夜中におじいさんが屋根裏に様子を見に行ってみると、ハイジは穏やかな表情で、気持ちよさそうに眠っていました。

 

翌朝、山羊を連れたペーターの口笛の音で目を覚ましたハイジは、金色に輝く光のなかで、昨日までいた町での窮屈な生活から解放されたことを思い出し、山での自由で新しい生活に小さな胸を高鳴らせます。おじいさんはパンとチーズのお弁当を作って、ハイジに持たせ、山の牧場(まきば)へ一緒に行かせました。

 

赤いサクラソウ、リンドウのぴかぴかの青い花、黄金のミヤマキンポウゲの花、青いつりがね草、コケモモの茂みの香り……吹き渡る爽やかな風、険しい岩山の上空を悠然と飛ぶ鷹の鳴き声……美しく気持ちのいい自然のなかで、ハイジはかわいい山羊たちに囲まれ、草の上に座ってペーターとお弁当を食べます。「これ食べていいわよ、わたし、いっぱいあるから」とハイジからパンとチーズも分けてもらったペーターは、生まれてこのかたそんな風に誰かに物をあげたことなどなかったので、心底びっくりしました。

 

そして、群れからはぐれて崖から落ちそうになった子山羊を二人で一緒に助けると、罰として山羊に鞭を振り下ろそうとするペーターに、ハイジは「放してあげて!」と懇願します。「明日またチーズを分けてくれるなら放してやってもいいよ」とすかさず取引をするペーター。山羊のしつけは本来ペーターの仕事なのですが、食欲に負けた少年はあっさりとハイジに従うのでした。

 

「燃えてるよ! 山も、その上の雪も、空も。(略)高い岩山が炎みたいになってる!」と夕焼けに輝くすばらしい風景に驚くハイジ。小屋に帰っておじいさんに「どうして鷹はあんなに鳴いたのかな?」と聞くと、おじいさんは「鷹は人間たちが集まって、互いの悪口を言うのを見てあざ笑っているんだよ」と答えます。山の夕焼けのことを「これはお日さまのせいなんだ。山に『おやすみ』を言うときに、いちばんきれいな光を投げかけるんだ」と言うおじいさんの話を、ハイジはとても気に入りました。

 

シュピリの自然描写は、この作品の読みどころの一つです。花々や岩山を照らす金色の光や、谷を吹きわたりモミの木を揺らす風の音。ことに太陽と風が強調されたシュピリの筆は、アルプスの大自然の美しさを描いて冴えています。また6月というのは、この地方では夏の盛りで最も日が長く気候が爽やかな、1年を通して一番いい季節ですから、ハイジの快い解放感と楽しさを伝えるのにぴったりの時期でしょう。まだ映画もテレビもない時代、人々は主に小説の描写によって見知らぬ土地の風景を味わったのです。

 

不毛で危険な場所だとしか思われていなかった山の風景に人々が注目するようになり、そこに特別な美しさを発見したのは19世紀に入ってからだと言われます。絵画でも、ドイツのフリードリヒやイギリスのターナーなど、ロマン派の画家たちが険しい山の風景を好んで描くようになるまで、それ自体が主題とされることはほとんどありませんでした。スイスの山岳地帯に観光客が来るようになり、自然のすばらしさを賛美する人たちがしだいに増えてきた時期でもあります。この物語でも、そこに暮らすおじいさんやペーターが当たり前のものとして見慣れていた山の自然が、ふもとの町からやってきたハイジという少女の目と感受性を通して、美として再発見されているのです。ここは少し意外に思われる方もいるかもしれません。わたし自身、実際にマイエンフェルトに行ってみたとき、山に囲まれたマイエンフェルトからの風景でも充分美しいと思いました。でも、山を登って行くにつれてどんどん眺望が開けていき、すべてが一望の下に収められる、そのすばらしさはまた格別でした。幼いハイジにとっても、ふもとから眺めていた景色と山の上から見た風景はまったく別物に感じられたのだ、ということをそこで実感しました。

 

ハイジはすっかり日に焼けてたくましく元気になり、幸せな日々を過ごします。やがて秋になると強い風が吹き、それから冬が来て、あたりは真っ白な雪に覆われました。

 

冬になると学校に行くペーターが、ハイジに会いに来てほしいというペーターのおばあさんの伝言を持ってきます。ハイジはある日おじいさんのそりに乗せてもらい、ペーターの貧しい家へ行きました。そして単調で厳しい暮らしにじっと耐えているおばあさんの目が見えないと知り、悲しくなって泣き出してしまいます。ペーターのおばあさんは、優しいハイジとの出会いを喜ぶとともに、村では嫌われ者のおじいさんがハイジを大切にしていることを知って驚くのでした。ハイジはおじいさんに頼んで、隙間風が吹きこむペーターの家を修繕してもらいます。それからハイジはたびたびおばあさんを訪ねて喜ばせ、一緒にやって来たおじいさんは家のなかには入らずに、外で黙々と大工仕事をして壁や鎧戸(よろいど)を直していくのでした。おじいさんのストイックさが印象に残りますが、ペーターの家族は、共同体からはじき出されているおじいさんが実はとても親切な人だということを確信するようになります。

 

ハイジという純真な子どもは、孤独なおじいさんや貧しいペーター少年、目の見えないペーターのおばあさんのような、社会的に不遇な人たちにとって、一筋の光のような存在になります。

 

とはいえハイジもまた両親を亡くした孤児ですから、読者から見ればかわいそうな存在のはずです。ところが本人にはそれを苦にする様子がまったくありません。おじいさんといても楽しいし、ペーターのおばあさんのことも好きだし、山羊のような動物や山の自然との触れ合いも楽しい。自分に与えられたものに感謝し、そこにあるものだけで充足して幸せを感じることができる。また自然のすばらしさを充分に満喫できるすぐれた感受性を持っている。そうした素質に加えて、おそらくはあまり楽しいものではなかったらしい町での生活から解放されたという、自由の喜びもあったことでしょう。デーテがラガーツ温泉で働いていたあいだ、ハイジはよそのおばあさんに預けられていました。しかもこのおばあさんは耳がよく聞こえなかったとのこと。そのころハイジに許された行動範囲はとても狭かったのだろうと想像できます。

 

■『NHK100分de名著 シュピリ アルプスの少女ハイジ』より

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