教養

『薔薇の名前』の重要テーマ「笑い」をめぐる論争


2018.10.02

『薔薇の名前』で描かれる最初の事件は、細密画家(ミニアトーレ)のアデルモの死です。修道院長に謎の解明を依頼されたウィリアムは、「異形の建物」と表現される図書館に赴き、アデルモが生前作業していた写本を見せてほしいと図書館長のマラキーアに頼みます。ここで、『薔薇の名前』の大きなテーマの一つである「笑い」についての議論が展開されます。イタリア文学研究者で東京外国語大学名誉教授の和田忠彦(わだ・ただひこ)さんが読み解きます。

 

*  *  *

 

アデルモの机に案内されたウィリアムとアドソ。ふたりはそこに、文字の周囲にすばらしい細密画が施された詩篇読本(サルテーリオ)のページを見つけて感嘆します。描かれていたのは、「野兎を前にして逃げ出す猟犬、獅子を狩る牡鹿」や「頭だけは馬の人間の姿をした生きもの」などさまざまな「逆立ちした生きもの」たちでした。

 

その詩篇読本(サルテーリオ)の余白には、わたしたちが慣れ親しんだ感覚とは逆の世界がひろがっていた。それはちょうど、真実の物語と一般に規定される物語の境界に、それと深く結びつきながらも、驚嘆すべき謎めいた隠喩の力で、逆立ちした世界をめぐる虚構の物語が繰りひろげられてゆくようなものだった。

 

妖しくもいきいきとした図柄の数々は、思わず見る者の笑いを誘うものでした。堪えきれずに詩を口ずさむアドソと、それに応えるマラキーア。彼の笑みを合図に、その場にいた一同に笑いがはじけました。

 

そのとき、まさにこの物語の最たる敵役といってもよいホルヘという人物による一喝が差し挟まれます。

 

「虚シイことばヤ笑イヲ誘ウことばハ口ニシテハイケナイ」

わたしたちはふり返った。その言葉を発したのは、歳月の重みに背の丸くなった一人の老修道僧で、雪のように白い髭をして、そればかりか顔も両の瞳も、真白だった。目が見えないのか、とわたしは気づいた。声にはまだ張りがあるし、手足もがっしりしているが、からだは歳の重みで縮こまっていた。わたしたちを見つめるその眼は、まるで見えているようだった。たしかにそのあと、動くときも話すときも、まだ健常な視力を有しているかのようだった。だがその声はというと、預言の能力をあたえられた者がもつ響きだった。

 

そしてここから、この物語の大きなテーマの一つである「笑い」をめぐる二つの立場についての論争が展開することになります。

 

笑いをめぐるウィリアムとホルヘの論争

 

ウィリアムは、この細密画には笑いを誘われるが、その目的は教化にあるだろうと述べます。「ちょうど説教に際して敬虔な群衆の想像力に訴えかけようと、実例(エクゼムプラ)を挙げて冗談を差し挟むことがあるように、装飾言語においてもこうした愚弄(ヌーガエ)を用いる必要はある」というのがかれの立場です。対するホルへは、こうした絵は神の教えに反すると言います。「この手の愚弄の狙いはどこにあるか?  それは神が定めたものとは対立する裏返しの世界。神の命令を教えてやるという口実をつけて!」

 

そしてホルヘは、たとえ最初の目的は教化であっても、人は次第にこうした妖怪のようなものに愛着を覚えてしまうと述べ、窓の外の聖堂を指します。聖堂には「あさましい猿ども」「半人半獣ども」「蛇の尾のついた四本足の動物」など滑稽な怪物の像が数多くあるとホルヘは言い、「いまとなっては修道僧たちにとって、読んではるかに愉しいのは、旧い手稿よりも大理石の像なのだ。それゆえ心地よいのも、神の掟について瞑想することより、人間の作品を鑑賞することとなった」とその場にいる修道僧たちの「欲望に満ちたまなざし」と「微笑み」を「恥を知れ」と一喝します。

 

アドソは、「視力を失って、何年も経つはずなのに、彫像の姿を鮮明に記憶して、その卑猥さをわたしたちに話してみせる」ホルヘの記憶力に驚嘆しつつ、「いまでもこれほど情熱をこめて描写して聞かせるほどなのだから、目が見えたころはさぞかし彫像の魅惑の虜だったにちがいない」と思わず疑うのです。ちなみにこの「図書館」のなかにいる、驚くべき「記憶」力を持った「盲目」の「ホルヘ」という人物は、ある種のモデル読者にとっては非常に明快にある実在の人物を想起させることでしょう。このことについては第2回で詳述することにしましょう。

 

この日の論争は、ウィリアムに加勢しようとしたヴェナンツィオの議論を、図書館長補佐のベレンガーリオが中断する形で、いったん終わります。去り際にホルヘは、一週間後に反キリストが現れるというおそろしい予言をします。そしてウィリアムたちは、この図書館が人を拒む図書館であることを知ると同時に、その日の夜、施錠された図書館に出入りできる秘密の通路の存在を知ることになります。

 

■『NHK100分de名著 ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』より

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