教養

なかなか進まない物語と建物の描写が過剰な理由


2018.10.01

ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』では、北イタリアのベネディクト会修道院を舞台に、連続殺人事件が起こります。主人公はフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムと、ベネディクト会の見習い修道士メルクのアドソという師弟コンビ。物語の冒頭部分から、エーコがこの作品に仕掛けたある工夫が効果を生んでいます。イタリア文学研究者で東京外国語大学名誉教授の和田忠彦(わだ・ただひこ)さんが、該当部分を引きながら解説します。

 

*  *  *

 

では実際に、第一日の部分を見ていくことにしましょう。少し読んでみるだけで、話がなかなか進まない理由が実感できると思います。手稿は、ウィリアムとアドソが長旅を経て修道院に到着するところからはじまります。

 

さてわたしたちはどれくらい山腹を曲がりくねって走る切り立った岩場の小道を抜けてきたのだろうか、あの大修道院がわたしの前にあらわれた。修道院の周囲を隙なく囲む壁は、キリスト教世界のいたるところで目にしてきたものと変わりがなく、わたしに驚きはなかった。だが後にあの建物であると判明することになる巨大な建築物には度肝を抜かれた。それは八面体の建造物で、遠目には四面体(難攻不落の神の都をあらわす完璧なかたち)であるかに見えた。その南面は修道院の内側の平らな敷地に聳(そび)え立ち、北面は山襞(やまひだ)からじかに生えているみたいに、絶壁をよじ登るようにして伸びていた。言うならば、下から見ると、場所によっては岩塊が天に向かってまっすぐに、色合いも材質も継ぎ目なく伸びてゆき、いつのまにか聳え立つ塔(天界地界の双方に通じた巨人たちの手になるものか)にかたちを変えているのだった。

 

さらに近づいていくと、遠目には四面体に見えた建物の、より具体的な構造が見えてきます。

 

近づいて見ると、四面体は、その四隅から七面体の小塔を突き出し、その七面のうち五面が外側に張り出していた─つまり大きな八面体の八つの側面のうち四面から、七面体の小塔が四本生えていて、それを外側から見れば五面体に見えるというわけだ。

 

このように、建物の描写は過剰といえるほど克明です。語り手であるアドソは騾馬(らば)にまたがって移動しているのですが、移動するアドソの視点に対して修道院の見え方がどう変わっていくかを含め、微に入り細を穿(うが)って描かれています。これは、先ほども述べたように、読者にアドソと同じように物語の「時間の流れ」を感じさせる仕掛けなのです。

 

一方、人物の描写に関しては、アドソが「このあとにつづく紙の上で人物の描写にかまけるつもりなど、わたしにはない──ただし顔の表情とか、仕草とか、そうした無言の雄弁なことばの記号として立ち現れてくるものは除いて」と言っている部分があるように、建物の場合ほど克明ではありません。別のところでエーコ自身が書いていることでもあるのですが、小説においてはある人物が「美しい」と書かれていれば、どのように美しいかが詳細に書かれていなくても、あるいはむしろ書かれていないときのほうが、読者は想像力を働かせる余地がある、ということだと思います。

 

そしてアドソは、修道院の姿に威圧感を覚えたといいます。

 

わたしが感じたのは、驚きと、そしてかすかな不安だった。それがわたしの精神の幼さゆえのまぼろしなどではなくて、わたしが正確に、疑う余地のない予言として受け取ったのだということは神もご存知のはず。その石に刻まれた予言は、太古の巨人たちがそこにはじめて手を置いたその日から、そこにある。そして修道僧たちがあらぬ思いを抱いて、その石を神の言葉を託す聖なる場所に祭り上げるはるか以前からそこにあるのだ。

 

ここで「あの建物」と呼ばれるのが、これから起きる数々の事件の舞台となる「異形の建物」になるわけです。

 

■『NHK100分de名著 ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』より

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