教養

釈迦入滅後に仏教はどう変わったか【後編】


2018.06.01

仏教は釈尊滅後500年の間に大きく変容しました。何がどう変わったのか、仏教思想研究家の植木雅俊(うえき・まさとし)さんが、具体的なポイントを五つ指摘します。

 

【前編】はこちら

 

*  *  *

 

4 仏弟子の範囲

 

原始仏教では、出家・在家、男女の別なく「仏弟子(ぶつでし)」と呼ばれていました。原始仏典には、「智慧(ちえ)を具(そな)えた聖なる仏弟子である在家者(ざいけしゃ)」というような表現までもありました。「在家者」にかかる修飾語が、「智慧を具えた聖なる仏弟子」なのです。

 

ところが部派仏教では、在家者と女性を仏弟子の範疇(はんちゅう)から除外します。説一切有部では、その地域で話されている言葉に代えて、いち早くサンスクリットを使い始めました。パーリ語で書かれた原始仏典には、男性出家者、男性在家者、女性出家者、女性在家者のそれぞれに対応して「仏弟子」というパーリ語が存在していましたが、サンスクリットに切り替えられると、男性出家者以外で「仏弟子」を意味する単語はなくなりました。つまり、仏弟子を男性出家者に限定して、在家者と女性を排除してしまったのです。

 

皆さんは「釈尊の十大弟子」という言葉をご存じだと思います。仏弟子の中でも代表的な弟子のことで、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ/シャーリプトラ)、多聞(たもん)第一の阿難などがよく知られています。原始仏教では女性の智慧第一や説法第一もいて、女性も在家も平等に代表的仏弟子として数えられていましたが、小乗仏教では男性出家者に限定されてしまいます。

 

5 釈尊の“遺言”

 

原始仏典では、死期が近くなった釈尊を見て不安になった阿難が、これから何をたよりにすればいいのかと問うたところ、釈尊は「今でも」「私の死後にでも」「誰でも」と前置きし、「自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法をよりどころとして、他のものによることなかれ」と語りました(自帰依〈じきえ〉・法帰依〈ほうきえ〉)。それが“遺言”でした。覚りを得るというのは、真の自己に目覚めることであり、法に目覚めることです。そこに最高の境地が開けると釈尊は言っていたのです。

 

ところが部派仏教になると、それがストゥーパ(卒塔婆〈そとば〉)信仰に変わります。ストゥーパ、つまり釈尊の遺骨(仏舎利〈ぶっしゃり〉)を収めた塔への信仰に変質したのです。また、聖地信仰も興ります。これは、〈1〉釈尊が誕生した場所、〈2〉覚りを得た場所、〈3〉初めて教えを説いた場所、〈4〉涅槃(ねはん)の場所の四つをアショーカ王が巡礼し、石柱を立てたことに始まるのですが、それがだんだん定着し、そこに行くことが信仰であるかのようになってしまいました。「自己」と「法」を尊重することから逸脱してしまったのです。

 

しかも、部派仏教は信徒たちに莫大な布施を要求するようになります。当時、インドではローマ帝国との交易が始まり、胡椒(こしょう)の取引によって大量の金貨が流入し、大きな利益を手にする人たちが出てきていました。部派仏教の信徒の中にもそうした人たちが現れ、教団に布施をするわけです。しかも大地主が荘園を寄進したりもしますから、教団には土地もたくさんある。ただ、出家者は現金に手を触れてはいけないという戒律がありました。そこで彼らは在家者の財産管理人を雇い、その人たちに利子を取って貸付を行なわせました。釈尊は、利子を取って貸付することを在家者には許していましたが、出家者には許していませんでした。説一切有部は、自分たちの行ないを正当化するために戒律を書き加えます。「僧伽(そうぎゃ/教団)のためには利潤を求むべし」(『根本説一切有部毘奈耶〈こんぽんせついっさいうぶびなや〉』)。これを釈尊が語ったかのようにして書き加えたのです。

 

このように、説一切有部は自分たちに都合の悪いところは仏典から削除し、都合のいいことを書き加えるという改竄(かいざん)を行なっていました。当時の部派仏教の様子を、私が多大な学恩をこうむった仏教学者の中村元先生は次のようにまとめています。

 

伝統的保守的仏教諸派は確固たる社会的勢力をもち、莫大な財産に依拠し、ひとりみずから身を高く持し、みずから身をきよしとしていたために、その態度はいきおい独善的高踏的であった。彼らは人里離れた地域にある巨大な僧院の内部に居住し、静かに瞑想し、坐禅を修し、煩瑣な教理研究に従事していた。自分自身だけの解脱、すなわち完全な修行者(阿羅漢)の状態に達してニルヴァーナ(涅槃)にはいることをめざし、そうして彼岸の世界に最高の福祉を求め、生前においては完全な状態には到達しえないという。こういう理想を追求する生活は、ただ選ばれた少数者だけが修行僧(ビク)としての生活を送ることによってのみ可能である。

(『古代インド』第九章、講談社学術文庫)

 

彼らは「自分自身だけの解脱」を目指し、民衆のことなど考えてはいなかったのです。

 

■『NHK100分de名著 法華経』より

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