教養

未来を予見する人 夏目漱石


2013.04.24

「大好きな夏目漱石について語りはじめて、はや六年になります」——こう語るのは聖学院大学教授の姜尚中(カン・サンジュン)氏だ。

 

出版物やメディアで漱石に言及する機会があるたびに作品を読み直し、いまだに新しい発見があるとも語る姜氏に、『こころ』について聞いた。

 

*  *  *

 

『こころ』は大正三年(1914)に「朝日新聞」紙上に連載されたもので、作品史としては、明治四十五・大正元年に発表された『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』『行人(こうじん)』とあわせて「後期三部作」と呼ばれたりします。若い学生の「私」が、夏の海岸で「先生」という謎めいた人物と知り合い、親交を重ね、やがてその秘密をすべて明かされます。しかし、その長い告白の手紙を読み終わったとき、「先生」はもうこの世にいない、という物語です。

 

小説の主眼は「先生」という屈折した人物の「心」の軌跡をたどることにあり、まさにぴったりのタイトルです。が、じつはここにはちょっとした裏話があるのです。

 

漱石は当初、人間のさまざまな「心」の軌跡を切り取った短編をいくつか書き、全部あわせて『心』という名の作品集にしようと考えていたのです。この小説はその第一弾として連載が開始され、原題は『先生の遺書』といいました。ところが、初めの意図と相違してかなりの長編になってしまったため、結局、この一本のみで『心』とすることにしたのです。

 

短編か長編かということは別として、ここで私は、明治から大正への変わり目の時代に、「心」というある意味どまんなかのタイトルをつけて近代人の心の奥底を描こうとした漱石の挑戦に、深く思いをいたすのです。小説の中には明治天皇が崩御(ほうぎょ)し、「明治の人びと」が時代の終わりを慨嘆(がいたん)する場面が出てきます。じっさい彼らは感無量だったと思います。というのも、明治時代はこの国の「近代の幕開け」であり、文明や科学や技術や合理的思考など、劇的な変革が数々もたらされました。しかし、同時に個人の孤独や人間関係の荒廃など、抜き差しならないものももたらされました。ですから、鋭敏にものを考える人はことさらな思いをもって来し方をふりかえり、先行きに必ずしも明るくないものを感じたはずなのです。言ってみれば、すでに災いの種子のようなものがまかれてしまっていることに、改めて気づくような——。

 

そんな知識人の不安の情景を、漱石は「心」という名の小説群に描こうとしたのではなかったでしょうか。

 

当時の作家の中でも、このようなまなざしは独特でした。それゆえに、漱石は「文壇」から孤立していたのでしょう。そのころ主流であったいわゆる私小説の作家たちとは一線を画していました。“両雄”と言ってよい森鷗外とも違っていました。違っているどころではなく、あざやかに対照的でした。

 

鷗外は明治の終焉(しゅうえん)の号砲を聞くや過去に目を向け、「歴史小説」を書きはじめました。そこに「失われてしまった美しいもの」を見たからです。しかし、漱石は歯を食いしばって前に向かいました。「あまりいいこともありそうにない憂鬱(ゆううつ)な未来」から目をそむけなかったのです。その意味では、ややパターン的な分類ですが、明治の終わりとともに鷗外は「様式」に向かい、漱石は「心」に向かった——といえるのかもしれません。

 

「未来が閉塞すると、人は過去へ戻りたがる」という言葉があります。しかし、漱石はそれをしませんでした。本人の語彙(ごい)を使えば、涙をのんで上滑(うわすべ)りに滑りながら、ぎりぎりもちこたえたのです。血を吐く思いで、じっさい近代の深淵を書くことの重圧から心身を病んで血を吐きながら、前のめりに滑っていったのです。その態度を私は「漱石的真面目」と名づけたいと思います。その真面目さが、私を惹(ひ)きつけてやまないのです。

 

見渡せば、いま個人と個人の距離はますます隔たって、隙間風(すきまかぜ)が吹き荒れているようです。一つ一つの心は宇宙の塵のようにみじんにバラけて、無音の真空空間をさまよっているようです。「心の時代」と言われて久しいですが、おそらくいまほど心の問題を考えねばならない時代はないでしょう。「未来を予見する人」漱石は、こんな今日のわれわれの「心」のありさまも、見通していたのかもしれません。

 

■『NHK100分 de 名著』2013年4月号より

 

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