教養

『ソラリス』の作家スタニスワフ・レムの“世界観”


2018.01.17

『ソラリス』を著した作家スタニスワフ・レムは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にあたる「戦間期」、1921年にポーランドで生まれました。

 

ポーランドは18世紀末の「ポーランド分割」で事実上消滅してしまいますが、第一次世界大戦が終結した1918年に独立を勝ち取ります。しかし第二次世界大戦が始まると、西からナチス・ドイツ、東からソ連が侵攻して、独立国としてのポーランドはまた消滅してしまいます。その間の短い独立期間が戦間期にあたります。

 

こうした世界情勢はレムにどのような影響を与えたのでしょうか? ロシア・東欧文学研究者で、東京大学教授の沼野充義さんが語ります。

 

*  *  *

 

レムが生まれた町について具体的にお話ししましょう。この町の歴史を語り出すと相当時間がかかってしまうのですが、レムという特異な才能に大きな影響を与えていることでもありますので、町の名前の変遷に触れながら簡単に紹介したいと思います。

 

レムが生まれたのは、当時はポーランド領だったルヴフという町です。この町はポーランド分割時代はオーストリア領に組み込まれていましたが、1918年のポーランド独立とともにポーランド領になりました。レムが生まれた頃はポーランド語で「ルヴフ」と呼ばれていました。しかし、その後ナチス・ドイツに占領され、さらにはソ連赤軍に「解放」されてソ連領に組み込まれ、ロシア語の「リヴォフ」という名前で一般に知られるようになりました。そして1991年のソ連崩壊を経てこの町はウクライナ領となり、現在ではウクライナ語に基づく「リヴィウ」という表記が国際的には使われるようになっています。これらの名前はすべて同じ語源から来ていて、「獅子の町」という意味をもちます。

 

確実なものなど何一つない

 

町の名前がこれだけ変わっているということは、そこを支配する国が次々に変わっているということを意味します。考えてみると、日本も第二次世界大戦では空襲や原爆、沖縄戦などで大変な被害を受けましたが、国土の大部分が戦場となって他国に占領され、日が覚めると今日は○○領になっていた、しばらくすると××領になっていた、などということはありませんでした。

 

しかし、ルヴフという町ではまさにそういうことが起こったのです。しかも、レムはポーランド人ではなく、ポーランドに同化したユダヤ人の家の生まれです。レム自身は、ユダヤ文化は自分の作品や世界観にはまったく影響していないと言っていますが、ルヴフの友人や親戚の多くがナチス・ドイツに虐殺されるなど、ホロコーストとも無縁ではありませんでした。そして第二次世界大戦後、ソ連領となったこの町に住んでいたポーランド系住民の多くは、ポーランド本国に「移住」することを余儀なくされ、レム一家も財産をほとんど残したまま、一度も暮らしたことのない「本国」のクラクフという町に移ったのでした。

 

レムの世界観の形成にとって、二十世紀の激動を東欧の<辺境>で、しかも国家に対する帰属が流動的になりうる民族の一員として生きたという経験は、やはり測りしれないほど大きいものがありました。レムの膨大な著作全体を一本の筋のように貫いているものがあるとすれば、それは人間の理性の限界を見定めようとする透徹したまなざしであり、絶対的なイデオロギーに対して懐疑的・相対主義的な見方をとることであり、理性の限界の外に広がる宇宙の驚異に対して自らを開いていこうとする姿勢だと言えるでしょう。それこそはまさに、激動の東欧史によって鍛えられたものに他なりません。1995年に私が行ったレムへのインタビューで、彼は次のように語っています。

 

人間はこの世に生まれてくると、すべては今のままで、これから先も未来永劫にわたってそのままだろう、なんて思うものです。ところが、実際には、そうじゃない。たとえば私は1921年生まれですから、戦前のポーランドで20年近く暮らしました。それからまずソ連の赤軍がやってきて、それからドイツ軍、そしてまたもやソ連がやってきて、われわれをリヴォフから追い出し、私は「引き揚げ者」としてここ、クラクフに送られてきたんです。

 

こういった恐ろしいほどの変化、体制の脆さを体験してきたんです。戦前のポーランドで幼年時代から青年時代まで20年近くも過ごせば、すべてはずっとこのままだろうと思われるようになっても当然でしょう。ところが、突然、何もかもが数日のうちに崩壊し、全く新しい状況が始まるんですが、それも長続きは決してしない。そうして、あらゆるものは移ろいやすく、不確かだと思い知らされる。それは地震のときに足下の地面が揺れるなんてものではなく、社会体制から人間関係まで、もう何もかもが崩れ、すべての価値が崩壊してしまう。これこそまさにわれわれの20世紀の本質ですよ。

(「新潮」1996年2月号に掲載されたインタビュー「レムが世界を見れば」より)

 

レムの作品の背後には、戦争に翻弄され、国境線が何度も引き直され、ホロコーストの脅威にさらされ、確実なものなど何一つないという状況の中を生き抜いてきた経験があるのです。

 

■『NHK100分de名著 スタニスワフ・レム ソラリス』より

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