教養

魂ではなく事実を書く——大岡昇平の視点


2017.08.27

大岡昇平は、成城高等学校在学中に、のちの文芸評論家・小林秀雄にフランス語を学びました。戦後、復員した大岡は小林の勧めによって捕虜経験をテーマとする小説を書き始めます。この2人の関係を、作家・法政大学教授の島田雅彦(しまだ・まさひこ)さんが、批評家・柄谷行人の論考を引きながら、解説します。

 

*  *  *

 

大岡のデビューに際しての逸話があります。小林秀雄が「君は魂のことを書け」とアドヴァイスをしたところ、大岡は「いや、事実を書く」と反発した。文芸評論家の柄谷行人(からたに・こうじん)がこの二人のやりとりに注目し、『大岡昇平全集』(筑摩書房)第2巻の解説に「『俘虜記』のエチカ」という論考を書いています。

 

小林秀雄と大岡昇平の関係はデカルトとスピノザの関係に似ている。スピノザがデカルトから出発したように、大岡も若いときから小林の影響下にあった。のみならず、小林はまさにデカルト的なのである。それは小林がデカルトを奉じたという意味ではないし、また、私が小林がデカルト的だというのは、必ずしも否定的な意味ではない。明治以来の日本の哲学においては、つねにデカルトは否定されてきた。文芸批評家とされる小林にこそデカルト的思考があった。小林秀雄は日本の最初の批評家だといわれるが、それはむしろ誤解である。彼は日本で最初のデカルト系の哲学者だったというべきなのだ。大岡は小林に反撥する根拠をスタンダールから得たと主張するかもしれない。もちろんそうだとしても、それは究極的にスピノザ的なものだとみなしうるのである。

 

この指摘は本質を突いていると思います。なぜなら、大岡が『レイテ戦記』を書いた動機、あるいは『俘虜記』と『野火』をどういったスタンスで書こうとしたかを分析する場合の重要な補助線になるからです。デカルトとスピノザは同時代人ですが、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といい、有形の肉体の中には物理法則に支配されない魂が存在すると考えました。

 

一方、スピノザは物質と魂を同一のものと考え、人の自由意志というものは幻想に過ぎないと看破し、著書『エチカ』で次のようにいいました。「人間は自分の行動を意識しているが、その行動を引き起こした原因を知らないという事実によって成り立っている」。

 

その考え方からすると、「自己」というのは肉体の現象に過ぎません。「自己」は思考の原因でも目的でもなく、結果でしかないのです。魂の存在を信じるか、魂というのは人の行動や思考、他者との関係などさまざまな要因の組み合わせの結果であると考えるかの違い、それがデカルトとスピノザの違い、ひいては小林秀雄と大岡昇平の違いといってもいいでしょう。

 

デカルトは神の存在を否定しませんでしたが、スピノザは神のような曖昧な概念を宗教上の信仰と切り離し、「神とはすなわち自然である」と考えました。スピノザの立場はその後、カントに受け継がれ、真理の追究において、哲学者も他者との合意を形成し、共通の理念を作り上げるようになったのです。この点も大岡昇平の事実への拘泥(こうでい)、検証作業の徹底という態度と重なります。

 

■『NHK100分de名著 大岡昇平 野火』より

 

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