教養

夏目漱石が絶賛したジェイン・オースティンの写実力


2017.08.04

イギリスの国民的作家ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』はどのような小説なのでしょうか。京都大学大学院教授の廣野由美子(ひろの・ゆみこ)さんは「ひと言で要約すると、女主人公エリザベスが、いろいろあって……最後は結婚しました、ということになります」と説明します。しかし、この作品は単純な恋愛小説ではありません。廣野さんは「その『いろいろあって』の内容が実に〈劇的〉だというところが、この小説の抜群のおもしろさなのです」とも指摘します。そのおもしろさは物語の幕開けから如実に表れています。

 

*  *  *

 

作品の冒頭部からすぐに、エリザベスの両親の会話が始まります。まずは、その部分を読んでみることにしましょう。

 

「あなた、ネザフィールド屋敷の借り手がやっと決まったって、聞きました?」

ある日、ベネット夫人が夫に向かって言った。

ベネット氏は、まだ聞いていないと答えた。

「でも、そうなのよ」と、ベネット夫人は返した。「だって、ロングさんの奥さんが、さっきまでここにいらして、すっかりそのことを話してくださったのですもの」

ベネット氏は返事をしなかった。

「借りたのが誰か、あなた、知りたくないのですか?」と、妻はいらいらして声を上げた。

「しゃべりたいなら、聞いてもかまわないよ」

呼び水としては、これでじゅうぶんだった。

「あら、あなたも知っておくべきですわ。ロングさんがおっしゃるには、ネザフィールドを借りたのは、イングランド北部出身の、財産持ちの若い男の方ですってよ。月曜日に、四輪馬車に乗って場所を見に来て、すっかり気に入って、すぐにモリスさんと契約したんですって。聖ミカエル祭〔9月29日〕までには借りて、来週末にはもう使用人が来るそうよ」

「名前は?」

「ビングリーさん」

「結婚しているのかい、それとも独身?」

「もちろん独身よ、あなた! お金持ちの独身男性で、年収四、五千ポンドはあるわね。うちの娘たちにとっては、なんてすばらしいことでしょう!」

「どういうことだい? それが娘たちと、どういう関係があるのかね?」

「あなたって、なんて面倒な人なの? 彼が娘たちのうちの誰かと結婚するってことに、決まってるじゃないですか」と妻は答えた。(第一章)

 

ベネット夫人はこの好機を逃すまいと、夫に、ビングリー氏が引っ越して来たら、すぐに挨拶(あいさつ)に行ってほしいと頼みますが、ベネット氏は乗り気ではありません。

 

「でも、娘たちのことを考えてやってくださいよ。娘がひとり、すばらしい家庭をもつことになるんだから。サー・ウィリアム・ルーカス夫妻なんか、ただそれだけのために挨拶に行くのよ。だって、あの人たち、ふだんは引っ越して来た人に挨拶になんて行かないもの。とにかく、あなたも行ってくださらなきゃ。そうしないと、私と娘たちが、ビングリーさんを訪問するわけにはいきませんもの」

「それは、気にしすぎだよ。きっとビングリーさんは、喜んでおまえに会ってくださるはずだ。うちの娘のどれでも気に入ったら、どうぞ結婚してくださいと、一筆書いて持たせてやるさ。特にリジー〔エリザベス〕のことは、推薦しておかなきゃな」 

「そんなこと、やめていただきたいわ。リジーなんか、他の娘たちと比べて、ちっともいいところはありません。ジェインほど綺麗じゃないし、リディアほど気立てもよくないのですから。でもあなたは、いつもリジーをひいきにするのね」

「ほかの四人とも、これといった取柄はない」とベネット氏は答えた。

「世間一般の若い娘たちと同様、みなばかで無知だ。だが、リジーだけは、頭がきれるからね」と、ベネット氏は答えた。

「あなたったら、どうして自分の子どもたちについて、そんなひどい言い方ができるのかしら。あなたって、私を苦しめるのを楽しんでいるみたい。私の神経が痛んでいても、まったくお構いなしなんだから」(第一章)

 

ベネット氏は、長年の結婚生活で妻の繊細な神経についてはじゅうぶんわかっている、と返しますが、慰めとは受け取れないベネット夫人は、再び夫をなじります。

 

この会話を読んだだけで、物語の基本情報がかなりわかります。ベネット家の近隣にビングリーという金持ちの独身男性が引っ越してくること。ベネット家には年ごろの五人の娘がいること。それぞれの親がどの子を気に入っているかもわかります。母親がかわいがっているのは、長女のジェインと末娘のリディア。父親のお気に入りは、頭のよい次女のエリザベスです。ベネット夫人はビングリーと娘たちを引き合わせたいと、躍起(やっき)になっているのですが、近所に「サー(Sir)」という称号をもつルーカス家があり、そこと張り合っているということもわかります。

 

ベネット夫妻は結婚生活二十余年。ベネット氏は、むきになっている妻をからかいながら冗談半分で扱っているのですが、内心は何を考えているのかわからない人物。夫人のほうは、とにかく五人の娘たちを経済的条件のよい男性と結婚させたいと願っています。

 

これは見事な導入の仕方です。語り手が状況を細々(こまごま)と説明するのではなく、早い段階から人物の会話を直接提示しています。そこにこれだけの情報があり、ベネット夫妻の性格や二人の関係も描き出され、しかも、物語世界の生き生きとした日常のなかに、読者をあっという間に引き込んでいくのです。

 

この冒頭部を絶賛したのが、かの夏目漱石です。漱石は、イギリス留学中の研究や、その後東京帝国大学で行った英文学の講義をまとめた『文学論』のなかで、「Jane Austen は写実の泰斗(たいと)なり」とオースティンを評価しています(「泰斗」とはある分野における最高の権威のこと)。その実例として、この会話部分をすべて引用し、これが「たんに平凡な夫婦の無意味な会話」ではなく、「この一節のなかに、夫婦の性格が生き生きと表れている」「この一節は、夫婦の全生涯を一幅の図として縮写しえている点で、実に意義深いものである」とし、その「平淡な写実のなかに潜んでいる深さ」(現代語訳=拙訳)の意義を、称賛しています。

 

■『NHK100分de名著 ジェイン・オースティン 高慢と偏見』より

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