教養

「死」から始まる人生論


2017.05.19

『人生論ノート』の連載で三木清(みき・きよし)が最初に取り上げたテーマは「死」でした。その冒頭、年齢のせいか近頃は「死というものをそんなに恐しく思わなくなった」と語り、「以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが」と書き添えています。これは未完に終わった『哲学的人間学』のことを指しているのでしょう。その中で三木は「一般に死の問題は人間学に於て決定的に重要な意味をもっている」と指摘しています。哲学者の岸見一郎(きしみ・いちろう)さんが、生と死についての三木の考えを解説します。

 

*  *  *

 

「死について」を著した時、彼は41歳でした。現代であれば働き盛りですが、当時の日本人の平均寿命は男女ともに50歳未満。40歳は初老です。「死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られている」。けれど、これくらいの年齢になると精神が老熟して「死は慰めとしてさえ感じられる」と書いています。

 

それにしても、なぜ初回のテーマに「死」を据えたのでしょうか。死は哲学における重要なテーマの一つですが、当時の人々にとって、それは身近な話題でもありました。前年(1937)に勃発した日中戦争が拡大の一途を辿り、初老どころか20歳を越えては生きられないと思っていた若者もたくさんいたはずです。こうした時代背景に加えて、三木自身が遭遇した近親の死も大きな動機となっていることがうかがえます。なかでも三木の心を占めていたのは、妻・喜美子さんの死でした。「どんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来る」ことを目の当たりにし、「愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思われる」と書いています。

 

三木自身は頑健で「あまり病気をしない」人だったようです。病床に伏していると「不思議に心の落着きを覚える」と語っています。

 

病気の場合のほか真実に心の落着きを感じることができないというのは、現代人の一つの顕著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病気の一つである。

 

これは元気な人、あるいは元気な時の発想でしょう。元気で忙しくしている時は、一週間くらい入院するとゆっくりできると思うかもしれません。しかし、実際に病気になると、そんなことは考えられないくらい辛いものです。

 

三木も、元気な若者は「自分が健康であることを自覚しない」と言っています。多くの人は、病気になって初めて健康を意識します。健康であることのありがたさ、今の自分と健康な状態との距離。そして、その距離が少しずつ縮まっていく「コンヴァレサンス(病気の恢復〈かいふく〉)としてしか健康を感じることができない」のではないかと三木は考察しています。

 

病気と健康とを対比したこの一節は、生と死についての三木の考えを示唆しています。彼は『哲学的人間学』に「生に対して絶対的な『他者』である死こそ、それに於て我々が生を全体的に眺め得る唯一の立場である」と記しています。つまり、病気になって初めて健康のありがたさが分かるように、死の立場から見ることで、初めて生を全体として把握できるようになるということです。

 

私たちは死を、生からの類推で考えてしまいがちです。一日が終わると眠りにつくように、人生の終わりには永遠の眠りにつくという言い方をしたり、現世と同じように来世での暮らしを思い描いてみたり。しかし三木は、死は生に対して「絶対的な他者」であり、生のイメージからは得られない別次元のものだと言います。恢復期に感じる健康が健康そのものでないように、生の延長上にイメージされる死は、死そのものではないのです。

 

■『NHK100分de名著 三木 清 人生論ノート』より

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