教養

正法眼蔵とは何か


2016.12.02

「人はそのままで仏であるというなら、なぜ、わたしたちは仏になるために修行をしないといけないのか」──この答えを求めて宋に渡り、正師に出会うことで仏教の真理を悟った道元。『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、道元の主著であり、未完の大著です。『正法眼蔵』とは一体どんな書物なのでしょうか。仏教思想家のひろさちやさんに伺いました。

 

*  *  *

 

『正法眼蔵』というタイトルの「正法」は、正しい教えという意味です。釈迦が説いた教え、つまり「仏教」そのものにほかなりません。それが経典となって「蔵」に納められている。つまり「正法蔵」です。では、お経さえ読めば釈迦の教えが分かるでしょうか。そうではありませんね。それを正しく理解するには、読む者に経典を解釈する力、すなわち「智慧(ちえ)」が必要です。

 

たとえば、仏教は不殺生戒(ふせっしょうかい)において生き物を殺してはいけないと教えています。でも、生き物を殺すとは本当はどういうことなのか。たとえば生き物のなかに植物まで含めれば、わたしたち人間は生きていくことができません。ですから、わたしたちはこの教えを解釈しないといけない。解釈するには「智慧」が必要なわけです。

 

そして、そのような「智慧」を禅者たちは“眼”と表現しました。曇りのない眼でもって対象を見たとき、わたしたちは対象を正しく捉えることができる。蔵に納められた経典も、そのような「眼」でもって読み取れば、仏の教えを正しく理解できるのです。それを「正法眼蔵」と呼びます。

 

道元は、釈迦の正法を正しく読み取る智慧を、弟子たちや後世のわれわれに教えようとしました。それが『正法眼蔵』という書物です。ご存じのとおり、道元は禅宗の僧侶です。それでは、禅とは何でしょうか。これはいろいろに定義ができると思いますが、ここでは、仏教の真理を言葉によらずに師から弟子へと伝えていく営み、と定義しておきます。禅の特色を示すものとして、

 

―― 不立文字(ふりゅうもんじ)・以心伝心――

 

がよく知られていますが、まさに文字(言葉)を立てずに、心から心へと真理を伝えていくのが禅なのです。

 

だとすると、釈迦の教えを正しく読み取る力を、書物、すなわち言葉をとおして伝えようとした道元の行為は、矛盾になりはしないでしょうか。

 

たしかにそうかもしれません。しかし彼は、その矛盾にあえて取り組んだのです。その背景には、道元の生きた鎌倉時代に広まっていた末法(まっぽう)思想がありました。

 

末法とは、釈迦の正しい教えが廃(すた)れてしまうとされる時代のこと。鎌倉時代の日本において、人々は「いまが末法の世だ」という意識を持っていました。そのなかで、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を称(とな)えるだけで極楽往生(ごくらくおうじょう)できるという念仏宗(ねんぶつしゅう)の信仰が盛んになります。しかし、道元はそれに反対しました。釈迦の教えを正しく伝える者、つまり正法眼蔵を持っている者さえいれば、釈迦の教えが廃れることなどない。それはいつの世にも残っていくものだ。それが道元の信念でした。

 

このように考えた道元は禅僧ですが、同時に偉大な哲学者でもあるといえるでしょう。

 

哲学とは何か。それは、人間の理性、つまり言葉でもって、人類普遍の真理を構築する営みです。道元は、たとえ末法の世になったとしても、仏教の真理を正しく読み取る眼が後世に伝わるよう、自らの智慧――それは、釈迦が菩提樹(ぼだいじゅ)の下で開いた悟りと同じものである、と彼は信じていました――を言語化して残そうとしたのです。

 

禅の修行をする人のなかには、『正法眼蔵』を坐禅の方法を教えている指南書だと捉えている人がいます。「坐禅をしない者に『正法眼蔵』が理解できるわけがない」という人もいます。でも、道元が残したかったのは、坐禅のマニュアル本ではなかったとわたしは思います。仏教を正しく理解する眼を、禅の修行をする人にも、しない人にも、広く、そして永く伝えるために『正法眼蔵』を残そうとしたのではないでしょうか。

 

ですからわたしたちは、この『正法眼蔵』を、一般的な禅の書物としてではなく、仏教を理解する智慧をなんとか言語化しようと試みた道元の、その哲学的思索の跡として読むことにしたいと思います。

 

■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より

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