教養

悪人こそが救われる!? 親鸞思想最大の逆説


2016.05.03

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の言葉と解釈をまとめた『歎異抄』には、私たちの常識を揺さぶるような逆説的な内容や思想がいくつも書かれています。その中でも最も知られているであろう一節について、如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんが読み解きます。

 

*  *  *

 

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」

 

(善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。

 

ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。)

 

一般的に考えると、後半部の「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」というほうが、理屈が通るように思います。しかし、これは世俗の理屈です。宗教的な本義に従えば、別の道筋が開きます。

 

まず、ここでの「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味している点に留意してください。彼らは仏にすべてをお任せしようという「他力」の心が希薄で、自分の修行や善根によってどうにかなると思っています。そうした自力の心を持つ人であっても仏は救ってくれます、というのが、一文目の「善人なほもつて往生をとぐ」です。

 

次に「悪人」ですが、「煩悩具足のわれら」とも言い換えられます。あらゆる煩悩をそなえている私たちはどんな修行を実践しても迷いの世界から離れられません。阿弥陀仏は、それを憐れに思って本願を起こした、悪人を救うための仏です。ですから、その仏に頼る私たち悪人こそが浄土に往生させていただく因を持つ──と考える。それが「いはんや悪人をや」です。

 

ここでは、「正機(しょうき)」と「傍機(ぼうき)」という言葉を説明しましょう。「機」とは対象の意味です。正機は真ん中ストライクの対象であり、傍機は中心を外れた対象です。他力の仏道においては、悪人こそが正機であり、善人は傍機であるのは当然の話です。

 

たとえば、法然の著作『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゃう』にも同じことが書いてあります。「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」(浄土宗の心は、もともと凡夫のためであって、兼ねては聖人のためである)。本来は、「浄土の宗意は」と読むべきものを、法然は「浄土宗の心は」と読み、もともと自分の力では悟ることができない「凡夫のため」のもので、「兼ねて聖人のため」でもあると説明します。ここから「浄土宗」という言葉が生まれました。

 

そもそも第三条の「悪人正機説」は、法然の言葉ではないかという説があります。根拠の一つは、『歎異抄』の多くの条の最後が「云々」で終わるのに対し、第三条は「仰せ候ひき」で終わることから、「法然上人から教わりました」と親鸞が語ったものは「云々」が付かないのではないか、と考えるのです。

 

そしてもう一つ、大正六年(1917)に醍醐寺三宝院で発見された法然の伝記があります。書いたのは、十三歳のときから法然に仕えた源智(げんち)で、法然を看取(みと)るほどに近しい関係にあり、親鸞の兄弟子にもあたる人ですが、その彼が書いた『法然上人伝記』(通称「醍醐本」)に「善人尚以往生況悪人乎」のフレーズが出てくるのです。ですから、親鸞オリジナルでなく、先に法然の言葉であったことは間違いありません。

 

「醍醐本」には、龍樹を初めとして天親(てんじん)や曇鸞などの菩薩と言われるほどの素晴らしい善人も浄土往生を目指したのだから、仏の本来のおめあてである私たち悪人はなおさら目指さなければならない、とあります。

 

自分で悟りを開けない人のための仏道であり、仏様なのですから、言うなれば、自分で泳げずに溺れている人からまずは救うということなのでしょう。でも、もちろん泳げる人も救いますよ、と付け足す。そんな理屈になっています。

 

あるいは解釈を広げるなら、仏の目から見れば、すべてが悪人です。しかし、自分自身は善人だと思っている人間の傲慢さはどうなのか、というわけです。すなわち、自分自身のなかにある悪への自覚に関する問題ですね。

 

いずれにしても、ここには一般的な社会通念とは異なる価値観が提示されているのです。そして、そこにこそ宗教の本領があると思います。社会とは別のものさしがあるからこそ、人は救われるのです。社会通念と同じ価値体系しかもたないのであれば、宗教の存在意義はほとんどなくなってしまうのではないでしょうか。たとえば、イエスが「貧しい者、飢えている者、泣いている者、あなたこそが幸せだ。なぜなら神の国はあなたたちのものなのだから」というのも、まさに宗教的逆説性であると言えるでしょう。

 

さらに別の角度から第三条を考察すれば、浄土仏教が弱者のための仏道、愚者のための仏道であることが浮かび上がります。だから、「阿弥陀仏、ただ一仏」といった一神教的な性格が強くなるのでしょう。総じて弱者の宗教は一神教化傾向が強くなりますから。むろん仏教ですので、唯一絶対なる創造神を信仰するわけではありませんが、浄土真宗は「選択一神教」などと評されることがあります。

 

弱者や愚者にとって、「信じる」という姿勢こそ、生きる術(すべ)です。「信じる」とは、人間のあらゆる営みのなかで最も強いエネルギーをもちます。根源的な力です。苦難の人生を生き抜くための手立ては、信じることです。そして「信」を一点にフォーカスすれば、最も強い状態になりますよね。

 

■『NHK100分de名著 歎異抄』より

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