教養

ナショナリズムの暴走が生んだ「鬼胎の時代」


2016.04.16

司馬遼太郎が晩年に執筆したエッセイ『この国のかたち』の中に、司馬が昭和について語った代表的な文章が収められている。

 

「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった」(一、4「“統帥権”の無限性」)

 

さらに、『この国のかたち』の「“雑貨屋”の帝国主義」という章では、日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦に至る四十年間は、日本史の連続性から切断された「異胎」(一、3)の時代だとし、同じ章の別の箇所では、「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕(はら)んでしまった鬼胎(きたい)のような感じ」(同前)とも表現している。

 

「鬼胎の時代」とは何か。歴史家・静岡文化芸術大学教授の磯田道史(いそだ・みちふみ)氏が詳解する。

 

*  *  *

 

「鬼胎の時代」とは何か

 

この「異胎」「鬼胎」とは、つまり「鬼っ子」──自分の子どもではあるが親に似ていない子ども─で、司馬さんは、この時代が日本史上の特異な、非連続の時代であったという意味で用いています(「異胎」と「鬼胎」はほぼ同じ意味ですので、ここでは「鬼胎」で統一します)。日本の歴史であるけれども、他の時代と大きく違う。明治と昭和は切断されている。この違いというものをどうとらえるか──と司馬さんは問うわけです。

 

しかし、司馬さんが本心から、明治と昭和が完全に切断されている、と考えていたのか、私には疑問に思うところがあります。社会の病というのは、現実の病気に似て潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう菌や病根は、やはり明治に生じていたのではなかったか。明治という時代は、まだそれが発症していない「幸せな潜伏期間」だったのではないか。

 

たとえば日露戦争の折、ロシア軍の機関銃が据えられている二〇三高地に対して、乃木希典の率いる軍は突撃を繰り返し、大量の死体の山を築きました。戦術的には明らかに誤っているにもかかわらず、決行されました。そして、それを悲壮な美談としてとらえる国民も当時からいたわけです。これは、司馬さんが「鬼胎」と称した昭和前期の病巣につながる病根であったといっていいでしょう。『坂の上の雲』の主人公の一人で、「明るいリアリズムと合理主義の体現者」として描かれた海軍軍人・秋山真之ですら、日本の軍には天の助けがある、あるいは天皇の率いる軍は天佑を保有している、といった超自然的な考え方から完全に抜け出ることはありませんでした。

 

そもそも日本の宣戦布告の詔勅は、明治このかた昭和まで「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践(ふ)メル大日本帝国皇帝ハ」で始まります(「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」)。「天佑を保有する日本国の天皇は」という文言が付き物で、「天皇は戦いに勝つための天の助けを生まれながらに持っている」と宣言してから戦(いくさ)を始めます。極端な場合は、日本は、天の助けを持っているから、神風も吹いた。だから、この国は負けたことがない、と考えます。国家をあげて超自然的なことがらを信じ教えているのは、その国家がある種の宗教団体であり、宗教国家に近い色彩を帯びていることを意味します。つまり、明治の日本国家は確かに合理的な法にもとづく近代国家をめざしていましたが、超自然的な力を完全に排除したリアリズムと合理主義を持っていたかというと、そうでもなかったのです。

 

ナショナリズムとパトリオティズム

 

では、なぜそのような「鬼胎の時代」が生まれたのか。その背景には、ナショナリズムの暴走があると司馬さんはとらえていました。ナショナリズムという言葉は、一般には国家主義と訳されるものですが、司馬さんは、お国自慢や村自慢、お家自慢、自分自慢につながるもので、あまり上等な感情ではないと思っていたようです。一方で、ナショナリズムと混同されやすい概念にパトリオティズム(愛国主義)がありますが、司馬さんは、愛国心と愛国者というものは、もっと高い次元のものだと考えていました。

 

ナショナリズムとパトリオティズムの違いについては、お家自慢のたとえで考えてみるとよくわかります。たとえば、ある地域社会で、自分はよい家に生まれたのだといって誇りに思っている人がいます。その人が家柄を自慢し、ほかの家を馬鹿にする。何ら自分の努力で手に入れたわけではなく、ただその家に生まれただけなのに他人を見下していると、自分は金持ちなのだから、貧乏人を従えて当然だという考えに陥っていきます。自分がかわいいという感情が、自分の家がかわいいと変形したにすぎず、その「自分の家がかわいい」を「自分の国がかわいい」と国家レベルまで拡大したものがナショナリズムだというわけです。

 

対して、「いや、自分はたまたま名家に生まれついたのだから、一層きっちりとして、さらに周りから尊敬される良い家にしよう」と考える人もいます。これは言わば「愛家心」ですが、この感情を国家レベルでおこなうのが、司馬さんのいう「愛国心」に近いと思います。自分の家をよくするだけではなく、周りの人たちのお世話までできる家にする─その高い次元の、真の愛国心を持った人が支配層にいる間はまだしも、持ちにくくなってきたときに国は誤りをおかします。そんな姿を司馬さんは活写しています。国の単位だとわかりにくいのですが、家の単位に転換して考えてみると、このあたりの問題はよくわかるのではないでしょうか。

 

■『NHK100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』より

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