教養

「譲ること」が人徳を養う ― 現代人も噛みしめて読みたい『菜根譚』の言葉


2014.11.30

加賀藩の儒者・林蓀坡による和刻本『菜根譚』(写真は文政8年[1825]の重刊本):大空社蔵

明代に洪自誠(こう・じせい)が著した『菜根譚(さいこんたん)』は、儒教を基盤としつつ道教・仏教の教えをバランス良く融合させ、この世でしっかり生きていくための処世の書となっている。中国だけではなく、日本でも江戸時代からよく読まれており、各界のリーダーたちから座右の書として愛されてきた。『菜根譚』の中で洪自誠は、人とどうかかわっていくかということをくりかえし説いている。「人づきあいの極意」とも言うべき一連の記述は、現代に生きる日本人の心にも響く内容といえる。大阪大学大学院教授の湯浅邦弘(ゆあさ・くにひろ)氏が、「『菜根譚』の名言中の名言」と評する一節を引きつつ、解説する。

 

*  *  *

 

日本人にとって「お先にどうぞ」というしぐさはごく自然なことで、人に「譲る」行為は、一般的な美徳の一つではないでしょうか。しかし中国の文化では、それはきわめて特異な行動と言えます。中国では三千年来、常に外敵から侵入を受ける脅威がありました。我を張って生きていかないと生き残れないという気持ちから、どうしても「我こそは」と一歩先んじようとしてしまうのです。にもかかわらず『菜根譚』では、「譲ること」の大切さを説きます。書かれた当時においても、これはたいそう衝撃的な言葉だったと思います。

 

径路の窄(せま)き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味の濃(こま)やかなる的(もの)は、三分(ぶ)を減じて人の嗜(たしな)むに譲る。此れは是れ世を渉(わた)る一の極安楽の法なり。(前集一三)

 

(狭い小道で人と出会ったら、自分の方から一歩よけて、先に相手を通してやり、おいしい食べ物は自分のぶんから三割ほどとって相手に譲り与えて十分に食べさせてやる。このような心がけこそ、この世を渡っていく上で、一つのきわめて安全安楽な方法である。)

 

エレベーターでも電車の乗り降りでも、人がワッと殺到するとぶつかりあって身動きがとれなくなってしまいますが、「お先にどうぞ」と言って一歩相手に譲れば、結局は自分もすんなり前に進むことができます。おいしい食べ物も相手に多く分けて喜んでもらえば、物事がスムーズに進みます。損してなるものかと、がつがつ手を出すのはもってのほかです。おいしいものをたくさん食べることができたとしても、うまい世渡りとは言えないでしょう。

 

次の条にある「完名美節(かんめいびせつ)は、宜(よろ)しく独(ひと)り任(にん)ずべからず」というのは、私の好きな言葉です。

 

完名美節は、宜しく独り任ずべからず。些(いささ)かを分(わか)ちて人に与(あた)うれば、以(もっ)て害を遠ざけ身(み)を全(まっと)うすべし。辱行汚名(じょくこうおめい)は、宜しく全(まった)くは推(お)すべからず。些(いささ)かを引きて己(おのれ)に帰せば、以て光を韜(つつ)み徳を養うべし。(前集一九)

 

(完全な名誉、立派な節操(せっそう)という評判は、独り占めしてはならない。そのいくらかを他人に譲り与えれば、危害を遠ざけ、身をまっとうすることができる。不名誉な行為や評価は、それをすべて他人に押しつけてはならない。そのわずかでも自分が引き受ければ、自分の才能をひけらかすことなく人徳を養うことになる。)

 

『菜根譚』の名言中の名言だと思います。がんばった結果名声を得る、あるいはすばらしい人だと評価を得るのはよいことです。ところが往々にしてその評価を独占してしまう人がいます。全部自分でやりました、という顔をする人がいる。それではいけないのです。高い評価を得たときにはちょっと考えてみましょう。たとえば自分をサポートしてくれた友人、先輩、後輩、あるいは家族がいたのではないでしょうか。そういう人に、いわば福分けをしてあげる。もらったご褒美を分けて、お世話になったみんなでその評価を共有することが大事だと言っています。

 

日本でも、成果主義、実力主義、結果主義が横行しはじめてから、かつてはあたりまえだったこうした行いが失われていく傾向にあるのかもしれません。短期間で結果を出して自分の実力を認めてもらわないと、査定に響いたり、ボーナスの額に差が出るようになったりして、「これは俺がやりました」「一から十まで私のアイデアです」と、業績を独占したくもなるのでしょう。いまの日本人にとっても、よく嚙みしめて読みたい言葉ですね。

 

■『NHK100分de名著 洪自誠 菜根譚』より

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