教養

『アンネの日記』は言葉の魅力が満ちる優れた文学作品


2014.08.08

アンネ・フランクの銅像

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)によって「世界でもっとも読まれた十冊」のうちの一冊にあげられ、2009年には「世界記憶遺産」にも認定された『アンネの日記』。エッセイ『アンネ・フランクの記憶』などを著した作家の小川洋子(おがわ・ようこ)氏は、『アンネの日記』を優れた文学作品だと評する。

 

*  *  *

 

ナチス占領下のオランダでなにが起きたかを証言する貴重な財産であり、日本を含めた世界中の学校で必読図書に選ばれたこの『アンネの日記』ですが、あまりにも有名な本になってしまったために、タイトルは知っていてもじつは読んでいないという声を耳にします。あるいはアンネを、ホロコーストの犠牲者の代表者、反戦や差別撤廃を訴える運動のシンボルとして認識し、日記自体の内容を丁寧に読みとく契機を持たなかった人もいるでしょう。

 

そこで今回は、『アンネの日記』が本来持っている文学的な豊かさについて、真正面から考えてみたいと思います。思春期の少女が、なにを考え、なにを感じ、それをどのように表現したのか。ここにはみずみずしい青春の息吹がみなぎっています。大人への不満、とりわけ母親に対する反抗心や、理由のない苛立(いらだ)ち、性へのあこがれ、将来の夢、そういった思春期の子どもの内面が鮮烈に描き出されています。これほどリアルな少女の声が胸に響いてくる文学を、わたしは他に知りません。

 

たとえば、アンネは「わたしのなかには春がいて、それがめざめかけているのだと。全身全霊(ぜんしんぜんれい)でそれを感じます。普段(ふだん)どおりにふるまうのには、ちょっとした努力が必要です」と書いています。子どもであることから卒業し、大人の階段をのぼりはじめた自分は、いまいる場所ではないどこかへ行こうとしている。でも、その先になにがあるのかはわからない──。思春期の只中にあって、未来へ大きな期待とすこしの不安を抱いている自分自身の気持ちを、こんなふうに客観的に見つめ、「春のめざめ」と見事に表現しています。このとき彼女はまだ14歳です。

 

多くの人がアンネ・フランクと聞いて思い浮かべるであろう、ナチスの迫害を逃れて隠れ家に暮らし、強制収容所で死を迎えた悲劇の少女、というイメージはもちろんその通りなのですが、この書物はそれだけにとどまらない、豊かな広がりを秘めています。日記からは、聡明で、大人びていて、つねに人生を肯定しながら将来をあれこれ夢見ていた、13歳から15歳のアンネの生(なま)の姿が浮かび上がってくるでしょう。

 

「優れた文学は必ず待っていてくれる」と、言われます。はじめて読んだときにはよくわからなくても、時を経て再びページを開けば、すっと理解できることがあります。わたしにとって『アンネの日記』は、作家として仕事をしていく過程でなんども読み返す機会が訪れる、縁の切れない本のひとつです。中学の図書館で借りてはじめて読んだ際はピンとこなかったことも、17歳で再読したら、時代や言語や環境の違いを全部飛び越えて、彼女のありのままの言葉が自分に届いてきたという体験をしました。そして、アンネの母親の世代となって読めば、また違った視線でアンネを見つめることができました。

 

ふと思い立ってぱらぱらと部分的にページをめくっても、あるいは腰を据えて最初から丁寧に読んでいっても、まったく退屈しません。言葉の魅力に満ち、読み返すたびに「あ、こんなところに、こんな宝石が隠れていたのか」と、新たな発見をさせてくれるのがこの本なのです。

 

『アンネの日記』を、歴史的意義を帯びた一冊として、構えて読むアプローチの仕方ももちろん大事でしょう。しかし、そういうことを一旦(いったん)脇に置いて、いまを生きる現在の自分に引き寄せて読むことも可能です。そうすれば結果的に、当時ナチスが行った行為のむごさ、愚かさを、なおいっそう心の深いところで感じ取れるのではないでしょうか。

 

この日記が現存し、現代まで広く読み継がれるようになるには、いくつもの奇跡としか呼べない偶然が働きました。逆にいえば、どこかで偶然がつながり合わなかったために、誰の目にも触れないまま世界からそっと消えてしまった“なにか”が、この世には無数にあったはずです。『アンネの日記』を読むことは、そういう埋もれてしまった死者たちの想いや声をも感じ取る、貴重な体験となるでしょう。

 

■『NHK100分de名著』2014年8月号より

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