教養

『遠野物語』に描かれる明治三陸大津波


2014.06.22

柳田国男

『遠野物語』には、岩手県遠野に伝わる神々や精霊、妖怪の話、家々の伝承などの短い話が119話収められている。これは、遠野出身の佐々木喜善(きぜん)が、柳田国男(やなぎた・くにお)に語って聞かせた話を、柳田が文章にまとめたものである。九九話には、明治二十九年(1896)6月15日に起こった明治三陸大津波の話が紹介されている。東京学芸大教授の石井正己(いしい・まさみ)氏が解説する。

*  *  *

この話の主人公の福二は佐々木喜善の祖母の弟で、北川という修験の家から出た人です。東日本大震災の津波でも大きな被害を受けてしまった山田町の船越半島の付け根に、田の浜という集落があります。福二は当時、その集落の長根という家に婿に入っていました。そして明治二十九年の三陸大津波に遭ったのです。このとき田の浜では138戸の家のうち129戸が流失し、死者が483人、生存者は325人であり、半分以上の人が亡くなりました。

九九 土淵村の助役北川清と云う人の家は字火石(ひいし)に在り。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院と云い、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり。清の弟に福二と云う人は海岸の田の浜へ聟(むこ)に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚(なぎさ)なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正(まさ)しく亡くなりし我(わが)妻なり。思わず其跡をつけて、遥々(はるばる)と船越村の方へ行く崎の洞(ほら)ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑いたり。男はと見れば此(これ)も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が聟に入りし以前に互に深く心を通わせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云うに、子供は可愛くは無いのかと云えば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物言うとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中(みちなか)に立ちて考え、朝になりて帰りたり。其後久しく煩(わずら)いたりと云えり。


大津波の一年後、明治三十年(1897)の夏の夜の出来事です。津波で亡くなったはずの自分の奥さんが、やはり津波で亡くなったはずの、いまの言い方でいえば元カレと、連れ立って現れるのです。「いまはこの人と夫婦になっている」と奥さんはいいます。こんなことをいわれたら世の男たちはみんな腰が抜けるのではないかと思いますが、男というのはめめしくて、「子供は可愛くはないのか」と、生き残った二人の子のことを持ち出します。奥さんは、これからは女として生きるという意志を示しますが、福二のほうは、母親としての愛情はなくなったのかと迫るわけです。すると奥さんは顔色を変えて泣きますが、結局好きな男と一緒に去っていきます。

福二が婿に入ったとき、まわりから「あなたの奥さんが前に付き合っていたのはあの人だ」などと言われたのでしょう。心の底で、妻は別れた男にまだ思いを寄せているのではないかと悩み続けていて、そうした深層心理がこの幻想を見させたともとれます。しかし、ここではたんなる心の動きでは片付けられない、魂の存在をリアルなものとして感じさせるような、迫真的な描写をしています。

福二が奥さんと会話した後で足元を見たというのは、おそらく生きているのかどうかを確かめたのだろうと思います。今回の津波と同じように、明治の大津波のときにも、身元確認ができず行方不明のままの人が大勢いました。私たちはつい幽霊が現れたように決めつけてしまいますが、福二はひょっとしたら妻は生きているのではないかと考えていたにちがいありません。

佐々木喜善は、昭和五年(1930)に「縁女綺聞」という文章の中で自らこの話を書き起こしています(『農民俚譚(りたん)』所収)が、その文章は『遠野物語』よりも具体的で、福二は「おいお前はたきの(女房の名前)じゃないか」と声をかけます。そして「何たら事だ。俺も子供等も、お前が津浪で死んだものとばかり思って、斯(こ)うして盆のお祭をして居るのだのに、そして今は其の男と一緒に居るのか」と詰め寄ります。その言い方は、死んだと思っていたのに、実は生きていた奥さんに話しかけているように聞こえます。生と死の区別はここでも曖昧です。

奥さんのほうは何もいわず、かすかにうつむいて、「二三間前に歩いて居る男の方へ小走りに歩いて追いつき、そうしてまた肩を並べて、向うへとぼとぼと歩いて行った」とあります。これは『遠野物語』よりも残酷で、遣る瀬ない話ではないかと思います。ただ黙って去られるよりも、「いまはこの人と夫婦になっている」と宣言されたほうが、まだ諦めもつくでしょうか。

しかし、この世ではともかく、あの世で奥さんが好きな人と一緒にいることまで自分が制限することはできません。福二はたぶん奥さんと出会うことで、遺体は見つからなくても、その死を受け入れざるを得ないと思えたのではないでしょうか。この話は悲しい出来事というよりは、それによって煩ったにせよ、絶望のなかで生きる希望をもって恢復(かいふく)していく、心の復興の物語として読んでこそ意味があるのではないかと思います。もちろん災害の悲惨さを伝えることは大事ですが、悲しみをどう乗り越えていくかというときに、この話はとても大きな意味をもっています。

■『NHK100分de名著』2014年6月号より

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